第2回オスマン史研究会(2013/7/7)

NIHUプログラム、イスラーム地域研究東洋文庫拠点は、第2回オスマン史研究会を、下記の要領で、開催しました。

【日時】:2013 年7月7日(日)14:30~17:30
【場所】:東洋文庫7階会議室
【プログラム】
司会 鈴木董
14:30~15:50  山下真吾(東京大学大学院)
「バヤズィットⅡ世時代の歴史記述に見られる「興隆」と「没落」の言説―イドリース・ビトリースィーの『八天国』を中心にして―」
16:00~17:20  熊倉和歌子(日本学術振興会)
「16-17世紀エジプト・デルタ地方におけるナイルの灌漑―スルターンのジスルの維持管理体制と村落社会―」

【概要】
第2回オスマン史研究会は、2013年7月7日東洋文庫にて開催された。今回は、学部学生1名、大学院生(修士課程)3名を含む21名の参加者があり、世代・所属を超えた研究者・学生の交流という、この研究会のもう一つの目的にも十分かなうものとなった。
山下真吾氏の報告は、オスマン朝バヤズィット二世時代の年代記である、イドリース・ビトリースィーの『八天国』の記述を、15世紀の年代記アシュクパシャザーデ史、ネシュリー史と比較したものである。その際、オスマン朝の「興隆」と「没落」の記述のされ方に焦点をあてた。報告では、アシュクパシャザーデ史には、スルタン・バヤズィット一世や、ウラマーに対する批判的記述が見られるのに対し、ネシュリー史では、王朝への批判的記述が削除され、『八天国』では、さらにウラマーに対する批判的記述や、スーフィーの役割に関する記述などが削除され、王朝の中央集権化を擁護する傾向が見られる、と論じられた。
山下報告に対しては、オスマン朝初期年代記の継承関係、16世紀後半以降の「没落論」との関係、因果応報論というタームの問題、ビトリースィーの位置づけなどについて議論が行われた。
熊倉和歌子氏の報告は、ナイル川の灌漑システムを支える、ジスルと呼ばれる「土手」の維持管理が、16−17世紀のオスマン朝統治下でいかなる体制の下で行われていたのかという問題について、『ジスル台帳』やシャリーア法廷台帳を史料として用いて解明を試みたものであった。まず、それらの史料を元に、上エジプトのジスルの位置、ジスルによって画定される「水利圏」、そして、それに含まれる村の同定がなされ、地図上に示された。そして、カイロのディーワーンと村との間に介在するアクターに関する分析がなされ、県単位でジスルの維持管理を担う「カーシフ」の役割が指摘された。
熊倉報告に対しては、カーシフの出自、維持管理体制の変化の問題、農民・村落社会の自律性の問題、オスマン朝中央政府の関わり、などの問題について議論が交わされた。
個人的には、ペルシア語で書かれた『八天国』は、ペルシア語の歴史叙述の歴史、あるいは、同時代のペルシア語文化圏のなかに位置づけて考える必要があるのではないかと思われた。第2報告では、台帳の記述から地図上に復元できることに、大変感銘をおぼえた。また、エジプトにカイロ以外のシャリーア法廷台帳が多数残存していることも、個人的には発見であった。

(文責:秋葉淳)

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