共催 比較教育社会史研究会2012年秋季例会「イスラームと教育」部会(2012/10/28)

NIHUプログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点は、科研費基盤C「オスマン帝国における教育の連続性と変化(19世紀~20世紀初頭)」及び比較教育社会史研究会と共催で、比較教育社会史研究会2012年春季例会「イスラームと教育」部会を下記の要領で開催しました。
【日時】:2012年10月28日(日) 11:00~14:00
【場所】:青山学院大学渋谷キャンパス 総研ビル(14 号館)9 階 第16 会議室
【プログラム】:
司会:秋葉淳(千葉大学)
報告1:上野雅由樹(東京外国語大学)「帝国末期オスマン・アルメニア人の学校選択」
報告2:藤波伸嘉(東京大学大学院)「アラブ人とトルコ人―青年トルコ革命のメディア、政治、ナショナリズム」
【概要】「近代・イスラームの比較教育社会史」研究会第4回会合報告書

2012年10月28日(日)、青山学院大学渋谷キャンパスにて、「近代・イスラームの比較教育社会史」研究会第4回会合が、比較教育史研究会2012年秋季例会の一部会として開催された。会場には、オスマン帝国とその関連地域の近代史に関心を持つ若手研究者を中心に、広く教育学に携わる研究者が参加し、活発な議論と意見の交換が行われた。

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上野雅由樹氏(日本学術振興会)による第1報告「帝国末期オスマン・アルメニア人の学校選択」は、多宗教多宗派帝国であった19世紀のオスマン帝国において、非ムスリムの中で最も積極的にオスマン官界に参入したアルメニア人がどのような人々であり、そこにどのような教育的背景があったのかについて考察を行うものであった。膨大な数に上るオスマン官僚の履歴簿の精緻な読み込みから、上野氏は、アルメニア人官僚の教育的背景の大きな特徴として、①初等教育段階では大半が宗派共同体の学校を選択する一方、高等教育を受ける割合が必ずしも高くなかった点、②初期には留学という選択肢が大きかったものの、オスマン政府による中等教育機関・高等教育機関の整備に伴い、同機関への進学割合が増加していった点、③官僚数にはイスタンブル・東部六州・それ以外の3地域の出身地別の差が見られ、時代とともにイスタンブルの割合が減り、東部六州以外の諸地方が増加していった点、④宗派共同体学校では語学教育が重視され、全般的にトルコ語能力の涵養が目指された一方、フランス語能力などに関しては中央と地方の間の差が大きかった点を指摘した。

上野氏によると、このようなアルメニア人官僚の登場とその教育的背景を分析することで、オスマン帝国におけるアルメニア宗派共同体の具体的実態のみならず、イスタンブルのオスマン中央政府が宗派共同体のエリートを取り込みその間接支配を目指す帝国の統治政策の一端を垣間見ることができるという。

藤波伸嘉氏(東京大学)による第2報告「アラブ人とトルコ人―青年トルコ革命のメディア、政治、ナショナリズム」は、青年トルコ革命後の第ニ次立憲政期に焦点を当て、専制から立憲制への移行に伴う公開の言論空間の登場及びアブデュルハミト二世治世下の検閲からの解放に伴う出版状況の変化を踏まえ、トルコ語紙・アラビア語紙・ギリシア語紙・フランス語紙など多言語から構成される公共圏における政治社会上の議論を分析し、オスマン帝国支配下のアラブをめぐる複雑な行為主体の関係性を明らかにするものであった。

取り分けて藤波氏は、1910年3月8日付オスマン・トルコ語紙『イクダム』に掲載されたイエメンのアラブを侮蔑する論説に端を発する筆禍事件に焦点を当て、オスマン・トルコ語、アラビア語、ギリシア語、フランス語などの新聞や雑誌に書かれた議論を丹念に追跡してつき合わせた上で、そこに見られる①公共性のかたち、②出版をめぐる主体、③トルコとアラブの関係について分析を試みた。すなわち、①公共性のかたちとして、言語を超えた相互引用や議会討論と新聞論説の相互作用が見られた点、②出版をめぐる主体として、オスマン議会の与野党関係においては統一派・反統一派の軸とアラブ意識の有無やその尊重の度合いは連動せず、また出版統制をめぐる対立軸は政府・軍当局対出版人、あるいはトルコ対アラブではなかった点、③トルコとアラブの関係について、イエメン問題がシリア・イラク・エジプトなどでアラブ全体の問題として受け止められ、またアラブの地位をめぐる議論において、立憲政期においてもなおアブデュルハミト二世治世下同様のアラブの重視が求められていた点が指摘された。

以上の藤波氏の報告からは、1910年頃のオスマン帝国のアラブ政治の文脈において、言説の次元での紛糾は権力政治の次元の離合集散には結びつかなかったこと、出版と政治の関係において、議会や軍、統一派・反統一派などの間で複雑な関係性が取り結ばれていたこと、オスマン帝国諸民族統合の方法をめぐり、取り分けてアラブの間で自民族中心的な思潮が台頭していたことが浮き彫りとなった。

(文責:平野淳一)

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