東洋文庫拠点研究班共催講演会 「The End of Empires: The Ottoman and Safavid Experiences」(1/22)

 

IAS東洋文庫拠点は、新学術領域研究「ユーラシア地域大国の比較研究」(北海道大学スラブ研究センター)との共催により、ミシガン大学のファトマ・ミュゲ・ギョチェク氏、デラウェア大学のルディー・マテー氏による講演会を行いました。

[日時] 2012年1月22日(日) 15:00~18:00
[会場](財)東洋文庫2階講演室(東京都文京区本駒込2-28-21)

[講演題目]

Rudi Matthee (University of Delaware)
“The Fall of the Safavids: Comparisons with the Ottomans and the Mughals”

Fatma Muge Gocek (University of Michigan)
“Studying Collective Violence and Denial in Ottoman and Turkish History through Contemporaneous Memoirs”

[概要]
2012年1月22日(日)に東洋文庫で開催された講演会(「The End of Empires:The Ottoman and Safavid Experiences(帝国の終焉:オスマン朝とサファヴィー朝の事例)」)には、イラン史、オスマン/トルコ史の研究者を中心に約20名が参加した。各講演の演題と概要は以下のようである。

講演①:The Fall of the Safavids:Comparisons with the Ottomans and the Mughals
(サファヴィー朝の滅亡:オスマン朝やムガル朝との比較)

講師のルディー・マテー(Rudi Matthee、デラウェア大学)氏は、サファヴィー朝社会経済史を主な研究テーマとして精力的に研究を行っている。今回の講演は、同時代に並存していたオスマン朝やムガル朝との差異を検討し、17世紀以降のサファヴィー朝の特質を考察するものであった。

三国家の比較は四つの観点から行われた。それぞれの要旨は次のとおりである。①経済:オスマン朝やムガル朝と異なり、サファヴィー朝は人口も資源も少なかったため、収入と支出のバランスは崩れやすかった。②政治:17世紀半ばにおいて、オスマン朝では大宰相が権力を握るようになり、ムガル朝では好戦的なスルタンが権力を掌握し続けた。しかし、サファヴィー朝の場合は、アッバース2世(在位1642~66)以降の指導者(君主)が戦争を避けるようになり、宮殿に隠遁してしまった。その政治体制は脆弱であった。③軍事:17世紀以降も戦争を継続したオスマン朝やムガル朝に対して、サファヴィー朝はゾハーブの和約(1639)以降、自発的に戦争の遂行を諦めてしまった。④イデオロギー(宗教):国家イデオロギーとしての宗教(イスラーム)は、三国家に共通して重要であった。サファヴィー朝では、反スンナ派としてシーア派宗教学者の権勢が高まったが、スンナ派が多数をしめる国境地域においてはその影響力は非常に弱いものであった。質疑応答では、ガージャール朝との比較などについて議論が交わされた。

サファヴィー朝、オスマン朝、ムガル朝がともに勃興した16世紀ではなく、「衰退期」あるいは「転換期」とみなされてきた17世紀以降の三国家を様々な観点から比較した今回の講演は、「近世(early modern)イスラーム国家」の共通性あるいはそれぞれの特徴を考察するうえでも有意義であった。

講演②:”Studying Collective Violence and Denial in Ottoman and Turkish History through Contemporaneous Memoirs”
(オスマン/トルコの回顧録に見るアルメニア人に対する集団的暴力とその否定)

講師のファトマ・ミュゲ・ギョチェク(Fatma M?ge G??ek、ミシガン大学)氏は、発展、ナショナリズム、宗教運動、マイノリティへの集団的暴力(collective violence)などの観点から、ヨーロッパと非ヨーロッパ(とくにオスマン帝国や現代トルコ)の歴史や政治を比較し、精緻な分析を行っている研究者である。

今回の講演は、「なぜトルコ政府・社会はいまだに1915年にアルメニア人に起きたことを否定しているのか?」という問題意識に基づき、それぞれの時代(オスマン~トルコ)におけるアルメニア人に関連する集団的暴力の、発生の要因や社会構造との関連性について検討するものであった。この問題にかんして、理論と歴史の両側面からの考察が行われた。まず理論的枠組みとしては、西欧近代とのかかわりのなかで、国家と社会との間において集団的暴力が発生する要因や認識に関して、「社会的分裂→集団的暴力→事件の正当化→集団的否定」、という図式が示された。歴史的観点からは、四つの局面(1789~1907、1908~1918、1919~1974、1975~2009年)における、それぞれの①近代性(modernity)、②社会的分裂(social polarization)、③アルメニア人に対する暴力、④正当化される事件(rationalizing event)、⑤層になる否定(layered denial)について説明がなされた。最後に、近代(性)の影響を受けて、社会構造の変化と認識の変化は相互に作用し、過去に起きた暴力の否定をもたらしている。そして、それは層として幾重にも積み重なり、過去の集団的暴力を認識することを困難にしている、と結論した。

「アルメニア人虐殺問題」は、その発生から1世紀近く経った現在においても虐殺の規模、命令や実行の主体について議論されており、国際政治にも大きな影響を及ぼしている。しかし、ギョチェク氏の考察は、その実態を明らかにすることが目的ではなく、「アルメニア人虐殺」などの集団的暴力が各時代の社会構造のなかでどのように発生し、互いにどのように関連してきたか、という問題を社会学的、歴史学的手法によって明らかにしようとするものであった。

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