共催研究会「近代・イスラームの比較教育社会史」(2012/6/16)

NIHUプログラム・イスラーム地域研究東洋文庫は、科研費基盤C「オスマン帝国における教育の連続性と変化(19世紀~20世紀初頭)」(代表:秋葉淳)と共催で、研究会「近代・イスラームの比較教育社会史」を開催しました。

【日時】:2012 年6月16日(土)12:55~17:15
【場所】:東洋文庫7階会議室

【プログラム】
12:55 趣旨説明
13:00 報告1 平野淳一(日本学術振興会)「想像のイスラーム共同体―出版メディアとイスラーム改革思想」
14:00 報告2 米岡大輔(日本学術振興会)「ハプスブルクとオスマンの間で―ボスニア・ムスリム知識人の教育改革論」
15:00 休憩
15:15 報告3 小笠原弘幸((財)政治経済研究所)「教科・学問としての歴史―オスマン帝国の場合」
16:15 総合討論
17:15 閉会

【報告】
2012年6月16日(土)、東洋文庫7回会議室にて研究会「近代・イスラームの比較教育社会史」が開催された。この研究会は内容の点で、2011年12月18日(日)開催の「ベル=ランカスター教授法の世界的流行:フランスとオスマン帝国」研究会(於:東洋文庫)、および2012年3月25日(日)開催の「比較教育社会史研究会2012年春季例会『イスラームと教育』部会」(於:お茶の水女子大学)に引き続くものであり、その意味で通算第3回目の研究会である。オスマン帝国とそれに関係する地域の近代史に関心を持つ研究者が、大学院生を含む若手を中心として15名が参加し、活発に議論を行なった。

第1報告は日本学術振興会特別研究員(PD)の平野淳一氏による「想像のイスラーム共同体―アラビア語出版メディアとイスラーム改革思想」であった。平野氏はパン・イスラーム主義を標榜するアラビア語出版メディア『固き絆』(1884年、パリ)を分析の中心に据えた。氏は、ムスリム言論人がロンドンやパリを人的・知的ネットワークの拠点とするようになり、『固き絆』もパリで刊行されたと説明する。氏によれば、『固き絆』ではイスラーム世界の軍事的・科学的衰退を事実として踏まえたイスラーム改革論が展開され、イスラーム文明の復興やイスラーム世界の連帯が提唱されたが、このような議論の背景にはヨーロッパのオリエンタリストによるイスラーム世界衰退論の影響があった。また氏は、『固き絆』がアラビア語で刊行された理由として、アラビア語が「聖なる」言語としての特権性を有し、イスラーム世界における知的リンガ・フランカとして機能するものだったことを指摘した。

第2報告は、日本学術振興会特別研究員(PD)の米岡大輔氏による「ハプスブルクとオスマンの間で―ボスニア・ムスリム知識人の教育改革論―」であった。米岡氏は、1878年以降の、ハプスブルク統治下のボスニアにおけるムスリム知識人の教育改革論を分析することにより、近代のムスリムが民族・国民理念を追求する過程で反帝国やナショナリズムを希求するようになるという従来の歴史観・歴史的構図を相対化しようとする。氏によれば、ボスニアのムスリム知識人はロシア帝国の状況を参照しながらメクテプで民族言語による宗教教育を行なうことを主張したが、その際に彼らが論敵とみなしたのはハプスブルク帝国政府ではなく、オスマン統治下で行なわれていた従来型の教育に固執し、政治的には自治を求めるムスリムらであった。第1報告と第2報告は、「ヨーロッパ」の「帝国」によるムスリム社会への接触や介入に直面したムスリムの知識人らの姿勢が、その地域の状況に応じて様々に異なるものであったという事実を示したといえよう。

第3報告は、(財)政治経済研究所の小笠原弘幸氏による「教科・学問としての歴史―オスマン帝国の場合」であった。小笠原氏は、タンズィマート期以降の歴史(オスマン史)教科書や歴史教育の性格を分析することで、単純な近代化論や、「近代の歴史教科書=国民史」というステレオタイプを見直す必要があることを示す。氏によれば、タンズィマート期には近代的な歴史教科書が作成・使用され始めたが、実は同時に伝統的な歴史書も教科書として使用されたし、「近代的」な教科書の「新しさ」も概して、平易な文章や図表の利用などの技術的な側面に集中していた。この事実からしても、研究分析の際の伝統/近代という単純な二分法は避けられるべきである。また、タンズィマート期とアブデュル・ハミトII世期のいずれの歴史教科書にも非ムスリムへの配慮はないが、オスマン主義的な要素も回避された。特にハミト期の教科書には「愛国」や「同胞愛」を説くような記述がなく、スルタンへの忠誠を強調したり、政府の政策を正当化したりするような要素が認められる。氏は、スルタンを「我らが父」と言及するようなパターナリズムもまた、「オスマン的近代」の特徴の1つであると指摘した。第1報告は、ムスリム知識人が自集団の「横」の繋がりを強化すべく思想を展開させたことに言及したが、その一方で第3報告は、オスマン帝国の歴史教育政策が君主と臣民の「縦」の繋がりを肯定する性格を有したことを指摘したといえよう。

文責:磯貝真澄(京都外国語大学外国語学部・非常勤講師)

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