第7回中央アジアの法制度研究会(2010/5/30)

イスラーム地域研究東洋文庫拠点は、京都外国語大学国際言語平和研究所と共催で第7回の中央アジアの法制度研究会を開催いたしました。

今回は、ロシア革命以前における中央アジアの裁判システムをテーマとしました。報告を掲載いたします。

[主催] 京都外国語大学国際言語平和研究所
[共催] NIHU研究プログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点
[日時] 2010年5月30日(日)10:30~17:00
[場所] 京都外国語大学9号館(国際交流会館)4階会議室 >>会場アクセス

[プログラム]
10:30~10:40  開会挨拶(堀川)と出席者の自己紹介
10:40~12:10 革命前夜の中央アジアにおけるイスラーム法裁判システム(磯貝健一〔追手門学院大学〕)
12:10~12:30 コメント(堀井聡江〔桜美林大学〕)
12:30~13:30 昼食
13:30~15:00 カザフの「慣習法」とビイの裁判 (野田仁〔早稲田大学〕)
15:00~15:20 コメント(萩原守〔神戸大学〕)
15:20~15:50 コーヒーブレーク
15:50~17:00 全体討論

[概要]
第7回の中央アジアの法制度研究会は、2名の報告者および報告者それぞれへの2名のコメンテーター、そして参加者の合計25名を迎えて行われた。今回も歴史学、法学の分野において、東アジア、南アジア、中央アジア、中東、ロシアをフィールドとする専門家、実務家が集まった。
前回第6回の同研究会において、法学の専門家が20世紀から現代にかけての日本・中国・欧米の裁判制度およびロシア・中央アジアの民事、憲法・刑事それぞれの裁判制度についての報告を行ったのに対し、今回は歴史学の専門家が20世紀初頭に至る中央アジアの定住民地域、遊牧民地域それぞれの裁判制度について報告を行うこととなった。

堀川徹氏(京都外国語大学)の趣旨説明に続いて、磯貝健一氏(追手門学院大学)が20世紀初頭中央アジアの裁判関連文書にもとづきながら、中央アジアの定住民地域における伝統的裁判制度を明らかにした。
まずシャハトJ. Schachtの提示する裁判の流れを確認し、中央アジアの各種裁判関連文書(訴状、判決文、ファトワー)を実例にもとづきながら提示、さらに中央アジアにおける伝統的なイスラーム法裁判のながれの再構成を行った。加えて紛糾した裁判の実例と、その際にファトワーが果たした役割についての検討が行われ、法学者たちが学説を取捨選択しつつファトワーの作成依頼者の要請に合うようなファトワーを作り上げていたという新事実が明らかにされ、ムフティーの実践的営みが浮き彫りになった。そして結論として以下の二点が挙げられた。
①中央アジアの伝統的裁判制度は、かつてシャハトが提示したイスラーム法裁判制度と本質的に同一のものであり、②中央アジアの伝統的裁判制度においては、ムフティーおよび彼が提出するファトワ―が重要な役割を果たしていた。

続いて堀井聡江氏(桜美林大学)が報告内容に対するコメントを行った。イスラーム法理論の研究を進める氏は、まずイスラーム法研究には、①法学者、法理論に関する研究、②文書・ファトワーに関する研究、の二つの研究対象があり、各地域においてイスラーム法がどの程度適用されていたか、カーディー、ムフティーの役割が地域において大きかったか否かという点が論じられる傾向にある、という解説を行い、加えて磯貝氏の研究が、イスラーム法研究の空白地帯である中央アジアの実例を明らかにする貴重な貢献であることを評価した。そしてムフティーの役割の解明、とくにムフティーのファトワーがカーディーの判決にどのような影響を与えていたのか、という点を解明することが今後の課題となりうることを指摘した。

午後は、野田仁氏(早稲田大学)が草原の「慣習法」、イスラーム法、ロシア法の交差するところに19世紀カザフ遊牧民に関する裁判・司法制度を位置づける報告を行った。まず研究史および19世紀に至るカザフにおける法、裁判の概観がなされたのち、1822年、1867・68年のロシアの統治規程に反映されたカザフの裁判・司法制度を明らかにし、最後に文書史料に現れる事例およびイリ地方における実態を指摘した。その結果、19世紀カザフの法制度は、ロシア法の影響を受けて変化する過程にあったことが示されるとともに、「慣習法」、イスラーム法、ロシア法それぞれで用いられる用語が混用されていたことが明確になった。
続いて萩原守氏(神戸大学)からの報告内容に対するコメントが続いた。18世紀以降のモンゴル遊牧民社会における裁判制度の研究を進める氏は、モンゴルとカザフが、それぞれ清朝とロシアの統治下にあったことを踏まえ、比較の視点から両者の裁判制度についてコメントを行った。両者間の差異としては、ビイとカーディーの存在/行政と司法は不可分、刑事と民事の別/刑事と民事は区別せず、ビイの裁定は口頭で行われる/すべての判決を文書に記録する、現地の法と統治者の法との擦り合わせが行われる/対象となる集団別に法典化されており擦り合わせの必要なし、といった点が挙げられた。また共通点として、賠償による和解が存在したことが挙げられた。

2名の報告およびそれに対するそれぞれ2名のコメントを受けて、最後に全体討論が行われた。その議論は多岐にわたったが、とくに複数の参加者の間で議論を呼び起こした点は、制定法にもとづく行政的司法の空間と慣習法の空間との二重構造が存在した可能性についてである。この大江泰一郎氏(静岡大学)の提起に対し、吉田世津子氏(四国学院大学)はスタティックな二重構造論の危険性を指摘したが、いずれにせよ行政の一部として司法が行われるのか、「民衆」が法を司るのか、という論点は、時間軸や法の執行者たちの社会における位置づけを意識したうえで、中央アジアと他の地域との比較を行う際には有効な切り口となりうるかもしれない。

今回は日本や南アジアの事例への言及が僅少であったが、19世紀から20世紀初頭の中央アジアにおける裁判制度の実態に関して、北部草原地帯の遊牧民カザフと南部オアシス地域の定住民との間の共通・相違点が数多く指摘されたことは重要な成果であると考えられる。また、磯貝氏が紹介した1870年代のサマルカンドにおいて第三者が原告と被告に和解を促すプロセス、また野田氏が指摘した1830年代遊牧民カザフの間での土地をめぐる係争に対する法廷の「調停的」性格は、それぞれの特質を有する社会において、裁判が人々の生活にどの程度の重みを占めていたのか、を知る上で示唆に富む。

文責 塩谷哲史(筑波大学大学院人文社会科学研究科)

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