第3回オスマン史研究会(2014/7/5)

NIHUプログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点は、下記の要領で、第3回オスマン史研究会を開催しました。

【日時】2014 年7月5日(土)14:10~18:00
【場所】東洋文庫7階会議室

【プログラム】
司会 秋葉淳(千葉大学文学部准教授)
14:10-15:30 「18世紀オスマン帝国の移住規制政策と街区:イスタンブルにおける地方出身者の社会統合過程を中心に」守田まどか(東京大学大学院博士後期課程)
15:50-17:20 「オスマン帝国の「王の祝祭」を支えたモノとヒト:1582年祝祭のための物資・人員調達と支出」奥美穂子(明治大学専任講師)
17:30-18:00 総合討論

【概要】
 2014年7月5日に東洋文庫にて開催された第3回オスマン史研究会は、関東近郊のみならず関西や九州からも人が集まり、 総数33名と会場に人が入り切らないほどの盛況であった。研究会の場では、修士や博士課程の学生も含めて活発な議論と交流が行われた。

 守田まどか氏の報告は、主要史料としてイスタンブルのシャリーア法定文書を用いて、様々な事例をあげ、街区の構造や概念図をスライドで示して行われた。氏は、地方からの人口流入とそれに対する政府の移住規制政策という観点から論じられることが多かったオスマン帝国首都イスタンブルへの移住者流入問題を、18世紀において街区を中心に移住者が都市社会へ統合されていく過程として捉え直した。報告では、行政単位としての街区は実際には独立(müstakil)街区と独立街区に従属する街区から成り立つという二重構造が見られること、保証人、婚姻締結、住宅施設の需要と供給、故郷との絶縁、アヴァールズ戸への登録といった事例において、政府が移住規制を行うにあたっても地方からの移住民が街区に受けいれられ住み着いていくにあたっても、先述の独立または従属した街区のカーディーやイマームが重要な役割を果たしていたこと、氏がシャリーア法定文書の記録の中から発見した1745年のイスタンブル街区調査台帳の記録をもとにイスタンブルへの移住者の半数以上がアナトリアの黒海沿岸地域出身者であったことを明らかにされた。

 守田報告に対しては、発表の形式をめぐって、訳文すなわち発表者の解釈や先行研究に対する自身の研究の具体的な位置づけを示す必要があるとの指摘がなされた。内容に関しては、街区の二重構造の史料上の位置づけや、16世紀の事例との比較、「18世紀」という枠組みの妥当性、1745年街区調査台帳の史料の性格や出典をめぐって活発な議論が交わされた。

 

 奥美穂子氏の報告は、氏が明治大学に提出された博士論文のテーマとして取り組まれた「王の祝祭 sûr-ı hümâyûn 」の中から1582年にムラト3世により行われた王子の割礼祭を、発給された勅令や命令の概要記録簿である枢機勅令簿とトプカプ宮殿博物館付属文書館所蔵で首相府オスマン文書館にその複写データが収蔵されている会計台帳という「王の祝祭」研究では用いられてこなかった史料群から考察したものであった。勅令による「王の祝祭」開催の通達勅令や贈物の贈答を通して、オスマン帝国が政治経済上で実質的な関わりを持つ地域との関わりを重視していたことや、中央に対する地方の従属と忠誠を再強化する役割が祝祭にはあったこと、祝祭の準備にあたっては人員と物資が動員され、中央政府の高い政治的求心力、行政処理力が発揮されていたこと、会計帳簿から祝祭開催における具体的な支出の細目を論じられた。「王の祝祭」研究における文書史料の有用性や、官僚制の台頭という社会情勢との関係、祝祭の通史的分析といった今後の展望を示された。

 奥報告をめぐっては、地方における祝祭の位置付けや、時代が異なる「王の祝祭」を同列にとらえることはできるのか、史料の作成年や史料間の関係といった問題について議論が交わされた。

 個人的には、守田報告は、シャリーア法廷台帳の中から発見した新史料の詳細をさらにうかがいたいと思わせた。奥報告は、トプカプ宮殿博物館付属文書館のみに収蔵されるオスマン語文書が利用できる(文書館は閉館中なので無い物ねだりではあるが)と「王の祝祭」の内容やオスマン史における意義がさらに解明されるのではと、研究の今後の進展に大いに期待を感じさせるものであった。

(文責:岩本佳子)

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