第12回「オスマン帝国史料の総合的研究」研究会(2011/9/9)

研究班「オスマン帝国史料の総合的研究」では、末期オスマン帝国の歴史家・法律家アフメト・ジェヴデト・パシャによる『覚書 (Tezakir)』の講読および翻訳作成を最終目的として、研究を進めています。

下記日程にて第12回研究会を行いました。

第12回研究会
[日時] 2011年9月9日(金) 13:30~17:30
[会場]東洋文庫7階会議室
[テキスト]ジェヴデト・パシャ『覚書 (Tezakir)』第1巻、59~64頁 (『覚書』手稿本と刊本の照合・翻訳読み合せ)
[担当者]永山明子・佐々木紳
[概要]

今回開催された「オスマン帝国史料の総合的研究」第12回研究には9名が参加した。まず、前回欠席者に対しオスマン帝国史料解題の作成について改めて簡単な説明がなされ、内容や各自の分担等が確認された。

次に覚書本文の検討を行った。範囲は刊本59頁から63頁であり、永山明子、佐々木紳両氏の訳稿をもとに読み進めた。今回の範囲は第七の覚書から第八の覚書冒頭にかけてであった。内容は、前回カルスの攻防でロシア軍に勝利したオスマン軍が、その後カルスへの食糧輸送に失敗し、結局カルスが飢えのために降伏してしまったこと、そのために総司令官オメル・パシャが非難されたこと、トリポリやメッカでの反乱、さらにスルタンも臨席した英国大使カニング主催の舞踏会について記述され、ここで第七の覚書が終わった。そのまま第八の覚書に進んだが、こちらではヒジュラ暦1272年のはじめ(西暦1855年末)にオスマン民法典『メジェッレ』編纂の前段階となるMetn-i Metinという法典の編纂がどのように始められたのかという点について説明がなされていた。

今回の翻訳作業では、前半のカルス陥落のくだりにおいてはオメル・パシャ率いるオスマン軍の進路変更がどのように行われたかを実際に地図上で確認して訳を進めた。また、辞書に載るような戦闘には定訳があることも多いため確認した。他にもTakvim-i Vekayiを『諸事暦報』、reis-i erkaniを「司令官」、Cem’iyyet-i ilmiyyeを「学識者会議」と訳すなど日本における定訳が存在するのか、またどのように名称をつけるべきかという点が論じられた。この名称の問題は第八の覚書においても提起され、法学における用語の訳のうち未だ日本での定訳が明瞭でないものについては「シャリーアと近代」研究会との協力の必要性があげられた。

さらに、宗教的な用語についても議論がおき、Rüesay-i ruhaniyyeについては「宗教的指導者」ではなく「聖職者の長」と訳した。これは辞書による直訳ではなく、時代的な背景をくんだ訳となるように配慮したためである。また、beceremiyorlarは「ものの役に立たない」と訳したが、ここでは日本語に直す際に原語のもつニュアンスをどのように表現するかという難しさが感じられた。

次回は10月23日に開催される予定である。

文責:稲永 紘子(千葉大学)

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