第11回「オスマン帝国史料の総合的研究」研究会(2011/8/4)

研究班「オスマン帝国史料の総合的研究」では、末期オスマン帝国の歴史家・法律家アフメト・ジェヴデト・パシャによる『覚書 (Tezakir)』の講読および翻訳作成を最終目的として、研究を進めています。

下記日程にて第11回研究会をいました。

第11回研究会
[日時] 2011年8月4日(木) 13:30~17:30
[会場]東洋文庫7階会議室
[テキスト]ジェヴデト・パシャ『覚書 (Tezakir)』第1巻、56~60頁 (『覚書』手稿本と刊本の照合・翻訳読み合せ)
[担当者]澤井一彰、永山明子

[概要]
「オスマン帝国史料の総合的研究」第11回研究会は、今年度第3回になる。今回の研究会には、7名の参加者があった。会の冒頭では、オスマン帝国史料解題の作成について、企画者の秋葉から説明があり、今後の方針などを議論した。この企画は、様々なジャンルのオスマン帝国史料について、その性格や利用法などの情報をコンパクトな形で提供することによって、オスマン史研究の方法とその成果について広く知ってもらおうというものである。さしあたっての目標は今年度末までに一定数の項目についてウェブ上で公開することであり、それに向けて執筆要領や役割分担などが確認された。

続いて、ジェヴデト・パシャ『覚書 (Tezakir)』の刊本第1巻56ページから59ページまでについて、澤井一彰、永山明子両氏の訳稿を元に検討がなされた。今回の部分は、前回に引き続きクリミア戦争に関する記述であり、セヴァストポリ攻略戦の状況と、それにオスマン軍が加わっていなかったために総司令官オメル・パシャが非難されたこと、そしてそのオメル・パシャがカルス救援に向かい、カルスの攻防においてロシア軍に勝利したことなどが述べられていた。 ここでは、とくに軍事用語の訳出に難しさが感じられた。例えば、gülleとhumbaraは「砲弾」と「榴弾」に訳し分け、şeşhaneは「六旋条銃砲」と訳した。また、kapaklıはKubbealtı社の辞典にのみ説明があったが、とりあえず「カパクル銃」と訳出するほかなかった。これらはより軍事史や武器に詳しい研究者の意見を聞く必要があるだろう。そのほか、“herçi-bâdâ-bâd” という慣用句の解釈についても議論になった。そのほか、オスマン側の戦死者を表す “şüheda,” “şehid”という語については、現代トルコ語では宗教的含意はほぼ無いに等しいものの、本書の時代性を考慮して原意を汲む形で「殉教者」とした。

前回から、会場で訳文をプロジェクタで投影して、検討をふまえてそれを画面上で修正するという形で進めている。この方法は、訳文の修正を参加者がその場で目で確認でき、また、同時に訳稿の暫定的な確定版がすぐでき上がるという利点がある。その結果、前回から会での検討をふまえた訳稿が、会終了後比較的早い時期に参加者に回覧できるようになっている。今後もこの方法を続けていくこととしたい。

各大学で後期の授業が始まると日程調整が難しくなるので、次回は9月中に開催することとされた。

文責:秋葉 淳(千葉大学)

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