連続講演 「オスマン朝と外部世界 」(3/22, 3/25)
■連続講演 「オスマン朝と外部世界 」(3/22, 3/25)
The Ottomans and the World Beyond: Cultural Encounters and Dialogue in the Early Modern Era
イスラーム地域研究・東洋文庫拠点は、ギュルル・ネジプオール、ジェマル・カファダル両教授(ハーヴァード大学)をお招きして、東京と京都にて連続講演会を開催いたしました。
[講師]
ギュルル・ネジプオール(ハーヴァード大学)Prof. Gülru Necipoğlu
ジェマル・カファダル(ハーヴァード大学)Prof. Cemal Kafadar
[日時] 3月22日(日) 14:00-17:30
[共催] 東文研セミナー
[会場] 東京大学東洋文化研究所3階大会議室 >>会場アクセス
※地下鉄大江戸線・丸の内線本郷三丁目駅から徒歩5分(東京大学本郷キャンパス内)
講演 1.
ネジプオール「近世地中海世界における建築をめぐる対話:教皇とスルタンの集中式ドーム型礼拝堂」
“Architectural Dialogues across the Early Modern Mediterranean World: Central-Plan Domed Sanctuaries of the Popes and the Sultans”
講演 2.
カファダル「西洋化以前のオスマン人の西洋観」
“Ottoman Views of the West before Westernization”
[概要]
「オスマン朝と外部世界:近世における文化的邂逅と対話」と題する連続講演の第一回は、オスマン帝国とヨーロッパとの交流や接触を扱った二つの講演からなる。
そもそも連続講演会全体のタイトルは、企画者である秋葉が事前に講演タイトルだけを見て考案したものであったが、終わってみると両氏の講演の主旨をかなり的確に言い当てていたのではないかと思う。どの講演も、オスマン帝国を開かれた世界として捉えるものであり、オスマン帝国の枠を超えた、より広い世界との関係性(対話・接触・邂逅・並行性)に強調点を置くものだった。「近世(early modern)」という用語は、両氏の講演題目にそれが含まれていたため全体のタイトルに借用したわけだが、オスマン帝国をグローバルな歴史の文脈に位置づけようとする両氏の意図をうまく反映しているのではないかと思う(この点については、第二回講演での質疑の中で明らかにされた)。
さて、最初のネジプオール氏による報告は、15-16世紀におけるイタリアの教会建築とオスマン帝国のモスク建築との間の連関に焦点を当てるものであった。オスマン朝においてはコンスタンティノープルを征服したメフメト二世の時代から、ローマ・ビザンツ文化の継承を意識し、ハギア・ソフィア聖堂をモデルとするドーム型モスクの建築が始まる。
メフメト二世がイタリア・ルネサンス文化に関心をもち、芸術家を招いたことはよく知られているが、彼を継いだバイェズィト二世も金角湾に架かる橋の建設のためにミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチの招聘を試みた(ミケランジェロは一時イスタンブル行きを考えたこともあったという)。建築家スィナンの時代においても、イスタンブルを訪れたヨーロッパ人や、書物などからイタリアの建築に関する情報が入手されていたと考えられるという。他方、イタリアにおいても、スィナンの活躍した時代と同時期に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、ハギア・ソフィア聖堂をモデルとしたものであった。また、メフメト二世のファーティフ・モスク以来、イスタンブルのドーム型建築は、旅行者のスケッチなどからイタリアで広く知られていた。それゆえ、オスマン朝とイタリアの建築家やパトロンたちは単に共通の建築遺産をモデルとしただけでなく、互いの建築文化について知識を有し、多分に意識していたはずだという。
最後に、建築様式の影響関係は単に東西の対話にとどまらず、例えばスライマーニーヤのオルジェイトゥの廟や、エルサレムの岩のドームもスィナンのドーム型モスクにインスピレーションを与えた可能性があると指摘された。
カファダル氏の講演は、主に16・17世紀のオスマン人の西洋に関する知識を概観したものであった。
一般に、オスマン朝はヨーロッパに対する関心がなく、いわゆる西洋化の時代までヨーロッパから何も学ぼうとしなかったと考えられてきた。しかし、今回の氏の講演はそのような従来説を、さまざまな事例を採り上げて覆すものであった。17世紀の百科全書的知識人キャーティプ・チェレビや大旅行家エヴリヤ・チェレビは決して例外的な存在ではなく、ヨーロッパへの関心やそれに関する情報はオスマン人の間で持続的に存在していたのである。ヨーロッパとの「接触」や「邂逅」には多様な形態がありえたのだが、とくに興味深かったのは、ヨーロッパ諸国に捕らわれたオスマン人捕虜の事例である。その一人はフランスに捕らわれたエジプトのイェニチェリであった。彼の残したフランス虜囚記では、ルイ14世が直接政務に携わり、権力を分離していないことが肯定的に評価されているという。この虜囚記は、他国を鑑として自国の体制を批判するという文学ジャンルの一種と捉えることも可能で、その意味でモンテスキューの『ペルシア人の手紙』になぞらえることもできる。
ほかにも17世紀末に捕虜となり、その後、長大な世界地理歴史書を著した人物も紹介された。その中の日本に関する記述は、キャーティプ・チェレビの Cihan-nümaとは全く別系統であるという。しかしながら、この著書は、同時期にミュテフェッリカによって出版されたCihan-nümaの陰に埋もれたまま今日に至っているとのことである(進行中の研究のため、詳細は省略した)。
講演会には20名の参加者があり、各講演後には質疑応答がなされた。両講演を通じて、オスマン朝史研究の可能性を感じ取ることができたように思う。とくにカファダル氏はどちらかと言えば寡作のほうなので、氏の進行中の研究の一端に触れることができたのは幸いであった。なお、3月末の開催のため、海外出張などの理由で参加できない方が多かったのが一つ残念なことであった。最後に、東京大学東洋文化研究所での開催の労をとっていただいた鈴木董氏と桝屋友子氏にお礼を申し上げたい。
文責 秋葉淳 (千葉大学文学部)
[日時] 3月25 日(水) 13:00-17:00
[共催] 龍谷大学国際文化研究所
[会場] 龍谷大学大宮学舎北黌203教室 >>会場アクセス
※京都駅から徒歩約12分
講演 1.
カファダル「近世におけるコーヒーハウスと闇の征服:イエメンからイスタンブル、そしてロンドンへ」
“Coffeehouses and the conquest of the night in the early modern era: from Yemen to Istanbul to London”
講演 2.
ネジプオール「オスマン朝とサファヴィー朝における装飾の美学」
“Aesthetics of Ornament in the Ottoman and Safavid Regimes of Visuality”
[概要]
第二回講演では、カファダル氏は、コーヒーとコーヒーハウスの歴史が、近世の社会史・文化史を理解する上で重要な問題を提起し、近世の超域的でトランスナショナルなダイナミックさを示す重要な研究領域であることを明らかにした。
まず、カファダル氏はコーヒーの歴史について論じた。コーヒーの飲用は1400年代のイエメンではじまり、スーフィーが夜間の修行中、眠気をはらうために用いられた。16世紀中頃イスタンブールに到達し、東はイランやインド、西はヨーロッパまで広まった。当初からコーヒーの覚醒作用と社会的結合を生み出す力は注目されていたのである。
次に、コーヒーハウスの特質を分析した。すなわち、コーヒーハウスは、近世において、非常に人気を博した新しい社会的結合の形であり、世俗的公共空間で、公共の文化活動に新たな場と形を提供するものであった。また、動員のための新しい集会場であり、禁止と容認の境界を再交渉する新しい環境ということから、政治的・宗教的権威と緊張関係にもあった。商品としてのコーヒーと産業としてのコーヒーハウスという点も重要である。
カファダル氏は、新たにジェンダーの視点も加え、さらに、近世の照明の発達とともに夜に対する人々の姿勢が変化し、コーヒーも消費をのばしたという独自の見解も示した。コーヒーはかつてないほど人々に夜と昼を操作しやすくさせ、近代性と関連づけられる、夜を征服する道具として用いられたのである。 ネジプオール氏は、20世紀への転換期にヨーロッパのオリエント研究者たちが、オリエンタリズムの観点からイスラーム美術を普遍的で変わらないものであり、その装飾の本質は4種類の「アラベスク」(植物、幾何学、銘文、人物)にあるとしたことを指摘した。これは歴史的な視座を排してイスラーム美術をみることであった。これに対してネジプオール氏は15・16世紀のサファヴィー朝とオスマン朝における装飾美学を比較することにより、時代や地域によって装飾の美学も変化することを明らかにした。講演は、(1)イスラームの美学の成立、(2)15・16世紀におけるオスマン朝とサファヴィー朝の装飾美学、(3)16世紀半ば以降のオスマン朝における独自の美学の展開という、3部構成であった。
ネジプオール氏は、サファヴィー朝において装飾様式が4種類ではなく7種類とする装飾様式が確立したこと、そしてこの装飾様式は15世紀オスマン朝でも共有されていたこと示した。しかし、その一方で、16世紀半ばをすぎるとオスマン朝の装飾は独自の展開をみせた。氏はイズニク陶器、テキスタイル、絵画におけるイメージを豊富に用いてその展開を示し、またこれまでにヨーロッパの研究者には無視されがちであったが、オスマン朝においてそのアイテムの価値を決めるのは装飾だけでなく、その素材が何であるのかも重要な決め手であったことも指摘した。つまり、イスラーム美術は時代や地域により特徴が変化するのであり、その本質も装飾にあるのではない。
さらにネジプオール氏は、今回の全体のテーマにひきつけて、オスマン朝とサファヴィー朝の美術が、15・16世紀においてエリート層を対象としていたものの、17世紀になると市場向けの製品となり、コーヒーと同様に、グローバルな文脈に組み込まれるということを強調した。
講演には30名ほどの参加者があり、両氏の講演の後に質疑応答がまとめてもうけられた。フロアからは、今回のテーマとも深くかかわる問題である、16・17世紀のオスマン朝をなぜ「近世」とするのか、という質問もあった。
文責 池田直子(千葉大学大学院社会文化科学研究科)
(2009年3月21日更新)