東洋文庫拠点研究会 オスマン時代ダマスカスにおける農民の状況と農業投資システム (2009/03/13)

イスラーム地域研究・東洋文庫拠点は、シリアからガッサーン・オベイド氏(ダマスカス歴史文書館館長)をお招きして、研究会を開催いたしました。

[日時] 2009年3月13日(金) 15:00-17:00
[会場] 早稲田大学41-31号館2階会議室    >>会場アクセス

[報告]オスマン時代ダマスカスにおける農民の状況と農業投資システム
Awḍāʻu al-fallāḥīn wa niẓām al-istithmār al-zirāʻī fī Dimashq fi al-ʻahd al-ʻUthmānī
[報告者]  ガッサーン・オベイド氏 Dr. Mohamad Ghassan OBEID
(ダマスカス歴史文書館館長)
[使用言語] アラビア語(日本語通訳つき)
[概要]
Exif_JPEG_PICTURE  本研究会において、報告者のガッサーン・オベイド氏(ダマスカス歴史文書館館長)は、18世紀前半のダマスカスの農業経営を、ダマスカス歴史文書館に保存される法廷台帳の記録、および年代記史料を合わせ用いて、詳細に検討した。

報告者は最初に、ダマスカス歴史文書館の設立の経緯や所蔵史資料について述べた後、特にJICA(国際協力事業団、現在は国際協力機構)との協力で近年実施されたデータベース化や文書修復事業に重点を置いて、文書館の活動を報告した。

次いで、氏は専門であるオスマン時代のダマスカスの農業について報告を行った。まず、長い歴史から見ると、ダマスカスの社会では、商工業の存在に一目置くとしても、基幹産業は農業であった。ただし、農民の多くは土地を所有できず、耕作を実施するためにはゼアーメトやティマールの保持者、スバシュたちから、ムラーバハ(一種の転売契約)やラフン(抵当権設定:当時は土地に植わる樹木などが一般的だった)などの仕方で借金をせざるを得なかった。債務や税による逃散もしばしば見られる。

樹木の所有はイスラーム法で認められていたため、慈善ワクフ地の樹木の9割弱が名望家層の所有となり、彼らがワクフ地を、かなり安価な賃料で長期に賃貸借することとなったことが述べられた。ワクフ地の樹木が管財人によって伐採され、薪として売却されたりしたので、新たな樹木を植えるために、賃借人を必要としたこともこの動きを促進した。

農業経営方式については、(1)収穫から直接利益をあげる方式、(2)ワクフ地の賃料、(3)「イクター」の賃料、(4)キスムとマクトゥー方式(農民に対しては労役の対価として取り分が与えられ、「イクター」保持者がその用益者から一定額を要求すること)の四つの方式があった。

Exif_JPEG_PICTUREこのほか、法廷台帳には、農業に用いられる施設や家畜、農具などや、小作契約、ダマスカス周辺の農村、灌漑水利体系や取水方法、収穫の実施、どんな農作物が栽培されていたかが記録されていた。中には、南シリアのハウラーン地方の村長たちがダマスカスに赴き、イスマーイール・パシャ〔・アズム〕から大麦の売却代金を受け取ったというような、オスマン朝の歴史を考える上でも非常に重要な記録などもある。

結論として、18世紀のダマスカスにおける農業は年によって収穫が増減したが、次のような要素が農業に影響を与えたと考えられる:〔土地〕所有の性質、農民へのミーリー地の定期的な再配分、大規模所有による形成と農民の土地改良意欲を削いだこと、ワクフ地の賃借人が農地保全に関心を払わなかったこと、天候や疫病、蝗害、増税、原材料価格と収穫との非相関性、農民の債務、遊牧民の農村襲撃など。これらの要素は複合して農民の生計状況を悪化させ、窮乏化させることとなった。

質疑応答では、イランにおける共同所有への反省から大規模所有が土地改良に向かわないとは言い切れないのではないかといった質問、農地経営に関わる職名や法廷で登記される契約の種類についての質問、荒蕪地の蘇生に関する政府の特別な措置があったか等々の質問が出され、これに関して活発な議論がなされた。
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感想として、法廷台帳の膨大な具体例に裏づけられた当時のダマスカスの農業経営は、講演では総じて否定的な評価を与えられたが、一方で、法廷で堂々と自らの貧困を訴え、債務の分割払いを認めさせる農民たちのケースなどからは、農民のある種の逞しさが垣間見える気もした。
なお、農民がワクフ管理人に勝訴したある訴訟の判決の根拠に「〔その起源が不明なほど〕古来から存続する〔適法な〕状態は、これを維持する」という一節が引用されているが、これは「シャリーアと近代」研究会で検討しているマジャッラ(オスマン民法典)の第6条にあたる。これはイスラーム法における、いわゆる一般的諸原則(カワーイド・クッリーヤ)にあたるが、18世紀前半の裁判での参照例が確認できたことは望外の収穫であった。

文責 大河原知樹(東北大学大学院国際文化研究科)

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