オスマン史研究会 第4回定例研究会(2015/7/4)

NIHUプログラム、イスラーム地域研究東洋文庫拠点では、科研費基盤(B)「17~19世紀オスマン帝国における近代社会の形成」(研究代表者:秋葉)との共催により、オスマン史研究会第4回定例大会を下記の要領で開催しました。

【日時】:2015年7月4日(土)14:10~19:30
【場所】:東洋文庫7階会議室(東京都文京区本駒込2-28-21)
【プログラム】
司会 秋葉淳
14:10~15:30 岩本佳子(日本学術振興会)
「オスマン帝国における免税特権と奉公集団:ルメリのユリュクとヤヤ・ミュセッレムの類似と相違」

15:50~17:20 川本智史(日本学術振興会)
「帝王の門:オスマン朝宮殿群の形成過程について」

17:30~18:00 総合討論

18:10~19:30 今年度研究計画についての研究打合せ

【概要】
2015年7月4日に東洋文庫にて開催された第4回オスマン史研究会は、関東近郊だけでなく関西や九州からも多数の参加者を集め、総数24人と例年通りの盛況であった。オスマン史の枠を越えて他地域の専門家や大学院生を含めた活発な議論が交わされた。

岩本佳子氏の報告は、労役や遠征への参加を代償として免税特権を受けた集団であったルメリのユリュクとヤヤ・ミュセッレムという集団について、「奉公集団」という分析概念を用いて考察するものであった。岩本氏は、これまでの研究では部分的・限定的にしか用いられてこなかった法令集、租税台帳、枢機勅令簿という性質の異なる史料を組み合わせて用いることにより、制度としての規定、運用の実態、奉公の内容の分析から、両集団の性格、集団間の類似点と相違点などを多角的・包括的に分析した。同氏は結論として、奉公集団は集団全体としては支配集団(アスケリー)と被支配集団(レアーヤー)の間に位置する中間的な存在である一方で、集団内部ではさらに支配集団・被支配集団にあたる身分があり、単純な二項対立では捉えられない多様で両義的な集団であったこと、さらに、16世紀後半にこの制度が西アナトリアで廃止される一方で、バルカン半島ではタンズィマート改革まで存続した背景に、軍事上の重要度の違いがあったことなどを指摘した。質疑応答では、奉公集団という分析概念の妥当性や、枢機勅令簿の中で奉公集団に関して出された命令の出現頻度を統計的に処理する際の問題点が指摘された他、同氏が文書史料に基づいて実証的に明らかにしたこの集団の16世紀後半における変化を、オスマン帝国全体の構造変化における文脈の中に位置づける可能性などについて意見が交わされた。

川本智史氏の報告は、同氏が東京大学に提出した博士論文の内容にそったもので、トプカプ宮殿の中庭を中心とする空間の形成過程、およびトプカプ宮殿以外にイスタンブルに建設された宮殿の解釈をめぐるものであった。オスマン朝の宮殿をモンゴルとその後継者による宮殿からの派生とする先行研究での類型を踏まえ、川本氏はそこからオスマン朝の宮殿がどのように形成されたかについて議論を進めた。15世紀初頭に完成したエディルネ旧宮殿が、それまでの都市城塞型ではなく、中庭儀礼タイプの新式宮殿であり、トプカプ宮殿の原型とみなせること、一方、イスタンブル旧宮殿は、中庭、すなわち政治機能を伴う外廷を有しなかったことから、当初から「ハレムの宮殿」を意図されていたことを指摘した。そのうえで、トプカプ宮殿の敷地内での増築などの建築面での発展をオスマン朝の行政機構の複雑化に伴う変容としてとらえるとともに、16世紀半ばから離宮や皇太后、大宰相の宮殿が多数建設されるようになる現象を、トプカプ宮殿一極集中から分散への過程と論じた。質疑応答では、川本氏が議論の前提とした先行研究の宮殿類型を批判的に捉える必要性や、宮廷儀礼の変遷が宮殿の空間的な編成に与えた影響を考察する意義についての指摘に加えて、そもそもトプカプ宮殿に機能が集約されないとする考え方が川本氏の議論に合致しているのではないかといった意見があった。

両氏の報告に対する質疑応答では、一次史料の緻密な分析に基づく実証的研究を大前提としつつも、そこからさらに踏み込んで、オスマン史全体の文脈や変化の中での位置づけや意義という点にも参加者の関心が集まった。

(文責:守田まどか)

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