「ベル=ランカスター教授法の世界的流行:フランスとオスマン帝国」研究会(2011/12/18)

イスラーム地域研究東洋文庫拠点では、研究会「ベル=ランカスター教授法の世界的流行:フランスとオスマン帝国」を、科研費基盤C「オスマン帝国における教育の連続性と変化(19世紀~20世紀初頭)」(代表:秋葉淳)と共催で開催しました。

[日時] 2011年12月18日(日) 14:00~17:00
[会場]東洋文庫2階講演室(東京都文京区本駒込2-28-21)
[プログラム]
14:00 趣旨説明
14:10 報告1 前田更子(明治大学)「19世紀前半フランスにおける民衆教育と博愛主義者」
14:55 報告2 秋葉淳(千葉大学)「オスマン帝国におけるベル=ランカスター教授法の導入(1830-40年代)」
15:40 休憩
16:00 討論(~16:45)
[ポスター]
bell_lancaster20111218
[概要]
「ベル=ランカスター教授法」とは、19世紀初頭、国教会従軍牧師としてマドラスに派遣されていたベル(1753-1832)と、ロンドン在住のクウェーカー教徒ランカスター(1778-1838)が、別々に考案した教授法である。その特徴は、生徒のなかから選ばれたモニターによる教育(モニトリアル・システム、相互教授法)、生徒の能力別編成、読み書き計算(3R’s)の重視、号例・監視・賞罰など規律の徹底、教育方法のマニュアル化などであり、現代の学校教育システムの源流の一つとして位置付けられている。

2011年12月18日、東洋文庫において開催された本研究会は、このような「ベル=ランカスター教授法」が、19世紀に世界規模で伝播/受容されたことに着目し、各地域における受容のあり方や、そこから窺える各地域固有の文脈を明らかにすることによって、オスマン史を、「イスラーム史」という枠組みに限定することなく、同時代の他の地域との比較や連関において捉えること、さらには新たな比較教育社会史の構築を目指すものである。

研究会を主宰された秋葉淳氏(千葉大学)から、以上のような問題設定と、「ベル=ランカスター教授法」に関する概要が説明された後、まず前田更子氏(明治大学)によって、19世紀前半のフランスの事例が検討された。前田氏は、相互教授法がフランスに導入される以前の初等教育の状況を確認したうえで、1815年に「博愛主義者」たちによって創設された「基礎教育協会」の活動について検討した。同協会は、各地に相互教授法による学校(相互学校)を設けたが、前田氏は、とくにフランス第二の都市リヨンに焦点をあて、同地に設置された相互学校のモデル校、協会立の学校の公立化、そして相互教授法の衰退と一斉教授法の隆盛などについて詳細に論じた。最後に、19世紀前半のフランスにおける初等教育は、「博愛主義者」たちによって推進されたことがあらためて強調された。

続いて秋葉淳氏が、オスマン帝国の事例を報告し、「ベル=ランカスター教授法」の同国への導入は、アメリカのプロテスタント系外国伝道団が、ギリシア人やアルメニア人といったオスマン帝国内のキリスト教徒に対して行った、プロテスタントの布教活動の一環であったことを指摘した。また、オスマン政府がこの種の学校を1831年に承認すると、官僚や陸軍長官の関心を呼び、1833年以降、ランカスター式の学校がオスマン軍(イェニチェリ廃止後に新たに編成された常備軍)の兵営内にいくつか設立されたことも紹介された。秋葉氏は、このとき文字の練習のために砂や石版が用いられたことが伝道団の史料から理解されるが、これは「ベル=ランカスター教授法」の特徴の一つであること、そしてオスマン側の史料においても、文字数ごとの単語学習や生徒の等級制、そして識字教育後の宗教教育といった、この教授法の特徴が見出せることも指摘した。こうした考察を踏まえて、近代軍の創設とムスリムの民衆教育政策に見られるような、1820年代における規律と宗教の重視が、「ベル=ランカスター教授法」のオスマン帝国への導入の背景として存在していたこと、そしてこの教授法は、1839年以降、文民の教育にも応用されたことも論じられた。

オスマン史のみならず、西洋史や教育学を専門とする方々など、14名の参加者を交えた討論においては、「ベル=ランカスター教授法」が廃れた理由や、相互教授法から一斉教授法への移行の過程などについて、比較史的な議論が展開された。「ベル=ランカスター教授法」については、日本においてもすでにいくつかの研究がなされているが、オスマン帝国をも視野に入れた研究は存在しなかったように思われる。しかしこの教授法は、上述のように、オスマン帝国にもアメリカの伝道団を通じて導入されたのであった。また、フランスへの伝播についても、未刊行の文書史料に基づく詳細な研究を得た。今後の教育社会史研究の進展を予想させる、充実した研究会であった。

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