連続セミナー「法廷台帳から見るオスマン朝期カイロの法と社会 」(12/27, 1/9, 1/16)

■連続セミナー 「法廷台帳から見るオスマン朝期カイロの法と社会 」(12/27, 1/9, 1/16) Law and Society in Ottoman Cairo as seen through court records

Exif_JPEG_PICTURE東洋文庫拠点では、早稲田大学拠点総括班予算にてオスマン朝期カイロの社会・文化史研究で知られるネッリー・ハンナ氏(カイロ・アメリカン大学教授)を招聘してオスマン朝期カイロにおけるシャリーア法廷と法廷文書についてのセミナーを3回に渡って開催いたしました。
[共催]「イスラーム地域研究」早稲田大学中心拠点(WIAS)
[会場] 早稲田大学41-31号館2階会議室(3回とも同会場です) >>会場アクセス

[使用言語] 英語(通訳なし)

報告を掲載しています。

Exif_JPEG_PICTURE第1回 12月27日(土) 15:00-17:00
法律と法の適用(法学派、慣習法、法令など)
The law and its application (madhhab; urf; qanun etc)

[概要]
オスマン朝期カイロの社会・文化史研究の専門家であるネッリー・ハンナ氏(カイロ・アメリカン大学教授)を迎えての3回にわたる連続セミナーは、NIHUプログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点主催、早稲田大学中心拠点の共催で行われる。第一回セミナーは2008年12月27日に早稲田大学において行われ、年末にも関わらず20名以上の参加者が集まった。

第一回セミナーは『法律と法の適用』というタイトルで行われ、オスマン朝期カイロの法廷文書から法と社会の関係性を読み解くことを目標とした。使用した史料は、婚姻・離婚・再婚・訴訟に関する文書で、初見でも読めるようにとのハンナ氏の配慮から比較的読みやすいものが選ばれた。
講義は二点の議論に絞って進められた。

一点目は、判決の際に適用される法についての検討である。ハンナ氏はまず、判決にはシャリーアだけでなくカーヌーンやウルフ(慣習法)も適用されることや、時にカーディーと当事者の間での交渉があることも指摘した。そして事例を見ながら、法廷での判決が必ずしもシャリーアによらないこと、そしてどの法が判決に適用されるかについては明確な基準はなく、事例ごとに異なるという複雑性を示した。一方でウルフが適用されることが多い上エジプトの事例をあげ、地方ごとに法適用の特徴があることも示した。

二点目の議論は法学派の問題である。オスマン朝期にはカイロにある15の法廷すべてに4法学派(シャーフィイー派・ハナフィー派・マーリク派・ハンバル派)の法廷があり、当事者はどの法学派の法廷に行くかを自由に選ぶことができた。それでは一体、当事者はどのような基準で法学派を選んだのか?この問題についてハンナ氏は、契約を結ぶ際に当事者は自らの目的を達成することができる見解を持つ法学派を選び、その法学派の法廷に行くというプロセスを明示した。

本セミナーの有益かつ重要である点は、単に文書に書かれている文字を読むのではなく、法廷をめぐる当時の人々の生き生きとした社会生活を知ることができたという点にある。文書を読む際に大切なのは、その背後にある当時の社会を読み解くことであるというネッリー・ハンナ氏の姿勢が色濃く反映されたセミナーであった。

さて、本セミナーの受講者数は20人を超えた。その中でも大学院の学生の受講者が目立ったことは特筆すべきことだろう。文書史料の読解は決して容易ではない。それにもかかわらず多くの若手研究者や学生たちが参加したということは、少なからずこの分野にニーズがあるということの表れであろう。またセミナーは、司会の三浦徹氏(お茶の水女子大学教授)の提案で、受講者全員が内容に入る前に英語で簡単な自己紹介をすることから始まった。ハンナ氏と受講者の距離が近い、活発な議論の飛び交う有意義なセミナーであった。
文責 熊倉和歌子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程)

第2回 1月9日(金)15:00-17:00
法廷の運営(監察、共同体の証言など)
Administration of the court (inspections; community witnessing etc)

[概要] 

約20名が参加した第二回目セミナーでは、最初に当初予定のテーマから、若干内容を変更する旨が告げられ、ワクフ(宗教寄進財産)関連の法廷文書を扱い、そこから見える法と社会の兼ね合いが論じられた。
※この変更はセミナー準備に当たった柳谷がセミナー内容詳細の確定前にテーマ提出をお願いしたために生じた齟齬によるものである。講師ならびに参加者の皆様にお詫び申し上げる。
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法廷はシャリーアを実行するのか。この問いかけへの答えが、単純なものではないということは第一回セミナーにおいても指摘された点である。法学上の規定だけでは、階層も職業も多様かつそれぞれの利害関係を抱える人々の問題に対処しきれるものではなく、社会的慣行や個人的な利害というより現実的な要素にも法廷は動かされることになる。

今回、ワクフに関してこのような法と社会の関係性を概観するにあたり、最初にワクフについて以下の三点が説明された。

①ワクフとは、自らの所有財産を、慈善を目的として寄進するものであり、適法行為によるものである
②一度ワクフとされた財産は永久にワクフであり、その監察・管理はカーディーとワクフ管財人に一任されている。ワクフは性質上不可変かつ永続するものであるべきなので、基本的には不動産がその対象とされる
③資産価値の高いワクフには巨大な利益が含まれるので、ワクフの監察・管理は慎重を期する必要がある

カーディーはワクフ修復費用の認定や、ワクフ管財人の任命など重要な案件に関わる。したがって今回の内容は「いかにカーディーはワクフを監察するか」にかかるものであることが述べられた。

続いて18世紀における具体的な三種類の事例についての検討に移った。

(1)誰がワクフ管財人となるかという問題はいかに論じられ、争われたか:資料9
有力な(価値の高い)ワクフか否かの判断基準として、この種の文書最後尾の署名に注目するよう指摘がまずなされた。資料9は、署名数も多く、アズハルのシャイフなど有力者やエリートの署名も見られることから、有力なワクフであることがわかる。
有力ワクフの管財人の任命には大きな利権が絡んでいた。この資料からは利権を配分しようとする政治的権威と、シャリーアの見地そして個人的な利害から、それが妥当であるか否かを判断する宗教的権威の緊張関係を見て取ることが出来る。

(2)法学的に疑問の余地がある例:資料24
この種の文書で注目すべきは、まずワクフ設定者、それからワクフ財産の具体的な情報であるが、文書の見方としては、大抵以下の二点を注意すると良いと述べられた。
・ワクフ設定者の名前はashhada ʻalā nafsihiという記述の後に現れる
・何にワクフが設定されているか:jamīʻという言葉の後に現れる
資料24は極めて古典的かつ書式に則った文書だが、一点のみイレギュラーな点が見られる。
この文書ではjamīʻのあとに、intifāʻ(使用)、mudda al-tawājur(賃貸期間)という言葉が続くことから、賃貸や用益に関する事項までがワクフとして設定されていることが見て取れる。これが、慣行としてはあることだが、法学的には若干疑問の余地のある例であることが、文書冒頭の三法学派のカーディーが一堂に会して担当している記述から判断できる(複数法学派のカーディーが認めることで、この判断の根拠と責任の所在が曖昧になるため)。
このように複数法学派のカーディーが担当するケースでは、法学的な根拠が弱く(あるいは欠陥があると思われ)、しかし(有力者が関わるケースなど)個人的な利害や慣習によって成立している事態も予想される。

(3)職人ギルドのワクフ:資料13、28、30
職人ギルドのワクフの事例はハンナ氏が実見した限りでは18世紀以降にのみ見られたものであるが(ダマスカスやブルサなど他の都市では17世紀の事例が報告されている点も補足した)、

①法人(職人共同体)によるワクフ:イスラーム法では法人格の存在がそもそも認められておらず、ワクフは個人による寄進であることが前提である
②有限物である動産(銅など)に対してワクフが設定されている:ワクフは基本的に不動産

と言う二点で、法の観点からはイレギュラーな事例であると見ることが出来る。

また、職人ギルドの親方になるために、ワクフとして銅盆を5枚(ギルド外からの親方の場合は10枚)寄進しなければならないとの規定をカーディーによって確定してもらった事例もあり、これも個人の自由意志による寄進であるワクフの本質に触れるものである。
加えて、これらの動産ワクフが賃貸によって利益をもたらしていた事実は、寄進行為が慈善と同時に商業行為でもあり利益をもたらしたという点で、ワクフ本来の目的を変質させたものということが出来る。
以上の事例からは、ギルドの慣行がワクフの法的概念・規定にはそぐわない面を有することが確認できるほか、カーディーがもはや合法性の精査なく、この慣行をすでに発生している事実として承認していたことを見て取ることが出来る。ハンナ氏は18世紀が経済的・社会的に大きな転換期にあたることを改めて指摘した上で、この時期にはカーディーが上記のように社会的慣行を追認する公証人的役割しか果たしていない例がまま見られることを述べた。

明快な筋道に実践的な内容を過不足なく盛り込み、美しい講義だった。ハンナ氏は具体的かつダイナミックに話を進め、時折、参加者が理解し残した点はないか問いかけるなど細やかな配慮を見せながら、講義を進めた。適宜、司会の秋葉淳氏(千葉大学文学部准教授)による要約説明もあり、英語とアラビア語の入り混じる内容に若干不慣れの参加者も置いていかれることは少なかったように思う。
  文責 柳谷あゆみ(人間文化研究機構/東洋文庫)

Exif_JPEG_PICTURE第3回 1月16日(金)15:00-17:00
法の操作
Manipulating the law

 

[概要]
オスマン朝期カイロの社会・文化史研究の専門家であるネッリー・ハンナ氏 (カイロ・アメリカン大学教授)を迎えての連続セミナーの最終回、第三回セミナーは2009年1月16日に早稲田大学において行われ、タイトルは「法の操作 Manipulating the law 」、主に財産分割に関する法廷文書記録が取り上げられた。

具体的には、亜麻仁油 zeit al-hār の搾取職人、ヤフヤー・アッシャアラーニーが、原材料の調達や住居の購入などを共に行ってきたパートナー、ムハンマドの死後、資金の確保のためにこのムハンマドの遺族とどのように関わり、どのようにして遺族との係争を意のままに操ったかという内容を、法廷台帳から読み解いていった。この回で取り上げられた資料は、21, 22, 23, 25, 26a,26b, 27 である。

まず26a, 26bでは、ヤフヤーが、未成年であったムハンマドの遺児に対し、借金を返済した旨が記され、借りていた期間中、毎日贈り物として15ニスフ支払っていた、とある。しかし、次の27では、26a,26bが記録されたと同じ日に、返済した額を再び遺児たちから借り、今回は毎日贈り物として11ニスフ渡すと記されている。
また25からは、ヤフヤーがパートナーであったムハンマドの寡婦と結婚していたことがわかる。25も26、27と同日に同じ法廷で起こされた訴訟であるが、原告は遺児たちの後見人で、ヤフヤーが妻(ムハンマドの寡婦)に対して三度離婚を宣言したのにもかかわらず、未だに同居している、と訴えている。この訴えに対しヤフヤーは、確かに二度離婚を告げたが(それ以前に一度離婚を告げていた)、そのうち二回目の発言は、一度言ったことの確認であり、意図としては一回の通告であったと述べ、カーディーはヤフヤーの言い分を受け入れている。

この一連のケースからは、まずヤフヤーが商売を維持するにあたり、パートナの遺児たちの財産を借りる必要があったこと、おそらく財産の分散を防ぐためにパートナーの寡婦を妻としたことがわかる。だが、ヤフヤーとムハンマドの遺族との間に何らかのトラブルが生じ、その結果が25の訴えであり、またヤフヤーが遺児たちに支払う額の減額も、このトラブルと関係していると推察される。

しかし、ここで問題となるのは、シャリーアでは利子が禁止されていることから、この毎日の支払いをどのように解釈すればよいのか、ということである。このことに関してはフロアからの質問や発言が活発に行われ、大稔哲也氏は、贈り物 nadhr という言葉から、これが毎日の支払いが利子というよりは、遺児に対する慈善、良き行い、という意味合いに転化させていることを指摘した。

三回のセミナーを通じ、ネッリー・ハンナ氏は一見難解な法廷文書について、何に注目すれば読みやすくなるかとノウハウを伝授し、法廷文書から広がる世界の面白さを見せてくださった。ただいま執筆中であるという新しい御本の刊行が楽しみである。
文責 辻明日香(東京大学大学院博士課程/日本学術振興会特別研究員)

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