第3回中央アジアの法制度研究会(2008/05/31)

京都外国語大学国際言語平和研究所と共催で中央アジアの法制度研究会を開催いたしました。
本研究会は中央アジアにおける前近代からソ連期にいたる法制度の変遷をテーマに、
イスラーム法、ロシア・ソ連法の研究者が参加して、文字通り学際的で稔りある会になることを願って開催するものです。

[主催] 京都外国語大学国際言語平和研究所
[共催] NIHU研究プログラム・イスラーム地域研究東洋文庫拠点
[日時] 2008 年5月31日(土) 11:00-17:00
[場所] 京都外国語大学 国際交流会館4階会議室   会場アクセス

[プログラム]

14:00~14:15 研究会開催にあたって(堀川)、出席者の自己紹介
14:15~15:45 イスラーム法における所有のあり方(1)(磯貝健一)
15:45~16:00 コーヒーブレーク
16:00~17:30 イスラーム法における所有のあり方(2)(磯貝健一)
17:30~18:00 質疑応答、討議
18:30~21:00 懇親会

[中央アジアの法制度研究会]
中央アジアにおいては、20世紀のソヴィエト政権成立期まで施行されたイスラーム法(シャリーア)、ロシア帝国の征服と統治にともない19世紀後半からやはりソヴィエト政権成立期まで施行されたロシア法、これに取って代わったソ連法、そして現代の独立諸共和国の各国法といったように、過去から現在にいたるまでさまざまな法制度・法体系が存在してきたが、本研究会は、こうした各時代の法制度を国家・社会と法の関係性という視点から具体的に比較・考察し、それを通じてこの地域への理解を深めることを主な目的としている。

ロシア革命を経た中央アジアは比較的スムーズに社会主義体制に移行したといえるが、所有のあり方を一つのキーテーマとすることでその理由や意味合いを読み解くことができるのではないか、本研究会はこうした問題意識に動機づけられつつ、堀川徹氏(京都外国語大学)の主導のもとで年来進められてきた「中央アジア古文書研究プロジェクト」を母体として2007年に発足した。

この研究会の大きな特徴の一つは、歴史研究者と法律研究者、また他分野の研究者が一体となって、基本的なレベルでの知識と方法論、問題意識の共有をはかりながら、地に足のついた実効ある学際的研究を進めようとしている点にある。
これまでの例会の報告が各分野の専門家による概説というかたちで行われてきたのもそのためである。
第1回例会では中央アジア史、イスラーム古文書研究を専門とする磯貝健一氏(京都外国語大学)が「イスラーム法概説」と題する報告を行い、イスラーム法の性格や成り立ち、その解釈・運用の担い手たる法学者の養成システムについてわかりやすく解説した。
つづく第2回例会では、民法(契約法・消費者法)を専門とする宮下修一氏(静岡大学)の「近代的所有権の構造:国際比較研究」、ならびに比較法・ソ連法を専門とする大江泰一郎氏(静岡大学)の「ロシアと中央アジアの所有権」という二本の報告が立てられ、所有権とは何か、また、近代以降の中央アジアにおいて所有権の観念と制度がいかに展開してきたか、という問題がていねいに論じられた。

[報告の概要]
第3回にあたる今回は、こうした流れをうけてふたたび磯貝氏が報告を担当し、「イスラーム期中央アジアにおける不動産所有について」と題して、イスラーム法における所有のあり方をハナフィー派の法学書やシャリーア法廷文書などの具体的史料にもとづいて専門的に論じた。

報告は以下の構成のもとで進められた。
1. イスラーム法の原則
2. 「ファイfay’理論」
3. 個人はハラージュ課税地の物自体を所有し得るのか?
3-1. 現実をどう解釈するか?
3-2. 柳橋氏の理論
4. ハナフィー派における物自体(raqaba)と用益(manfa‘a)
4-1. 賃貸借契約における物自体と用益
4-2. ワクフ契約における物自体と用益
4-3. 接収地理論における物自体と用益
5. イスラーム法廷文書における物自体と用益
6. まとめ

いずれの法学派の学説に則っても、イスラーム法において財産は、概念上、物自体と用益の二部分に分かたれ、それぞれが所有の対象となるとされるが、これに関して、ファイ理論——ハラージュ課税地について、その物自体は一律に国家の所有権下に置かれ、その用益にのみ個人の所有権を行使できるとする理論——と現実——ハラージュ課税地は他の財産と同様に、相続、売却等の方法で処分が可能であった——とのギャップをいかに解釈するかという問題をめぐっての、本邦における従来の学説(とくに柳橋博之氏によって理論的に構築されてきた)を批判的に検討しようというのが本報告の趣旨であった。

柳橋氏の議論にしたがえば、国家の所有権下にあるはずのハラージュ地にも、別に用益の所有者が存在し、この用益の所有者は相続、売却等の手段によって土地の用益を自由に処分できた。これに対して磯貝氏は、少なくともハナフィー派法学の大系においてはハラージュ課税地の国家的所有論はそもそも確認できない、とするBaber Johansen氏の指摘に注意を喚起しつつ、以下の問いを設けた。
ハナフィー派イスラーム法において柳橋氏の理論が成立するためには、①同派の学説においては、ハラージュ課税地の物自体は個人に所有されず、かつ、②物自体と用益は独立した所有対象とされる、という二つの条件が満たされなければならないが、はたして、ハナフィー派法学でハラージュ課税地の物自体は本当に個人の所有対象とはならないのか、さらに、そもそも或る財産の物自体と用益はどの程度まで相互に独立しているのか。

磯貝氏はこの設問に回答を与えるべく、賃貸借契約、ワクフ契約、接収地理論それぞれにおける物自体と用益の関係を具体的に検討した。賃貸借契約(用益の期限付き売買)においては、一定の諸条件を満たした合法的な契約が締結されることではじめて用益が財産化される。この点を確認したうえで、氏はハナフィー派の権威的法学書、Hidāyaに示された見解と、これに対するFatḥ al-Qadīrにおける注釈をつぶさに検討し、契約対象となる物件の物自体とは異なり、賃貸借契約によりはじめて財産化される用益は相続の対象とはならないと述べ、ここから、用益は物自体にかなりの程度まで包摂される概念であるとの見通しを示した。

ついで、ワクフ契約の前提を確認しながら、ハナフィー派の権威的法学者たちの学説を検討し、用益の喜捨と定義されるワクフ制度において、ハナフィー派が物自体の所有権の存在を重要視していた事実とともに、ここでもやはり物自体と用益の明確な分離は前提とされていない点を指摘した。

さらに、接収地理論の場合については、まず、ハナフィー派の権威的法学書の一つ、al-Muḥīṭ al-Burhānīに拠りながら、接収地とは、納税能力を喪失した農地の物自体の所有者に代わり、国家(≒君主)がこの農地を接収し、ここから生じる用益を処分するような土地である、との定義を与えつつ、接収地の処分においても、物自体と用益は明確に分離していないことが前提とされていたと指摘した。
つづいて、現在のウズベキスタン共和国の各地に伝存する19世紀のイスラーム法廷文書に見る諸事例から、現実の譲渡担保契約の担保物件は、その大部分が物自体ではなく用益であり、物件の物自体の所有権は契約当事者間で移動せず、その用益の所有権のみが恒久的に移動するという形態をとっていたことを指摘した。氏によれば、その理由は、ある時期(おそらく16〜17世紀頃)以降、ワクフ財産と接収地の増加にともなって、結果として用益が物自体から完全に分離され、そのうえで本来は想定されていなかったはずの、「無期限の用益」という新たな財産の範疇が作り出され、これを物自体に代えて処分の対象とするほかない状況となったことに求められる。

以上の考察から、氏は次のような結論を導いた。
①ハナフィー派法学において、物自体は個人の所有対象であった。
②本来、ハナフィー派法学においては、物自体と用益は完全に分離しておらず、用益は物自体に包摂される概念であった。
③柳橋氏は、ハナフィー派法学が所有権理論をファイ理論に融合させる過程で、物自体と用益が学説上分離したと考えるが、むしろ、物自体と用益の学説上の分離は、その物自体を処分することが可能であるような財産が減少したという現実に法学説を融合させる過程で、後世になってから生起したものではなかろうか。
このように、磯貝氏の報告は、先行研究への批判的見地と第一次史料にもとづく実証主義の姿勢において際立ち、内容的にきわめて重厚にして説得的なものであった(報告ののべ時間はじつに2時間半ほどにも及んだ)。

報告後の質疑応答では各分野の専門家から様々な意見や質問が出された。法律研究者からは、ファイ理論が帯びる、ハラージュ課税のためのフィクション性に関する指摘(宮下修一氏)や、本報告における「所有」という語の使い方が、法学研究者の理解(所有とは物に対する包括的支配権であり、用益権を包含する)とは若干異なるように感じられるという意見(田崎博実氏)が聞かれたほか、イスラーム法が所有権と用益権を物に内在する要素と見ていることから、概念成立の変遷のうえでは、用益(manfa‘a)が先にあって、それを動かすものとして物自体(raqaba)が生まれたと考えることはできないか、という大胆な問題提起(大江泰一郎氏)もなされた。
一方、歴史研究者のなかからは、研究史における本報告の位置づけにかかわる問い(近藤信彰氏)が発せられ、物自体と用益が「完全に分離」しているという学説がじっさいに定説化しているのか、また、用益が物自体に「包摂される」とまで言ってしまってよいのか、といった疑義が呈された。
磯貝氏はこれらの質疑にていねいに応じ、微細な点において持論を適宜修正しつつも、従来の学説における問題点をあらためて指摘し、大枠としては本報告の結論がより根拠のある適切なものであるとの見解を示した。総じて、氏の報告は、とくにハナフィー派のイスラーム法における所有権に対する従来のとらえ方を見直す必要があることを実証的に論じた、きわめて示唆に富むものであった。自分はイスラーム法の専門家ではないと謙遜する氏ではあるが、法律研究者をうならせるほどの専門性をもたせながらにして、歴史研究者にも十分に理解可能な法学的議論を展開したことは特筆に値する。
同時に、その正確な史料読解と緻密な分析には歴史家としての本領が遺憾なく発揮されていたことも付言しておきたい。今回の研究会参加者は23人を数えたが、氏の報告はその誰にとっても、きわめて有意義にして刺激的であったことはまちがいないだろう。

文責 木村暁(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程;日本学術振興会特別研究員)

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