シャリーア法廷台帳(Sicil)

シャリーア法廷で作成された台帳(記録簿)をオスマン帝国では sicil(トルコ語。アラビア語ではsijill)と呼ぶ(現代トルコ語では şer’iye sicili と言う)。シャリーア法廷台帳は過去30年間のオスマン朝史研究においてもっともポピュラーな史料の一つであり、これがなければオスマン史研究の今日の発展はなかったとも言えよう。シャリーア法廷とはオスマン帝国各地に設置され、カーディー(裁判官)あるいはその代理であるナーイブが主宰する法廷であり、司法のみならず地方行政の中心でもあった。後述のように。定義として、sicil はカーディー(ナーイブ)が作成あるいは受領した文書の控えを集めた帳簿である。この定義は重要であり、sicil は裁判記録や調書ではなく、あくまでも法廷における判決あるいは陳述の記録として作成された文書など、原則として、紙片として存在する(した)文書の控えの記録簿である。

台帳に記録された文書を形式的に分類すると、最も多いのが証書 hüccet で、これは裁判の結果を記したもののこともあれば、単に売買や貸借、あるいは離婚の成立、扶養額の決定、代理人の任命、借金の清算などを記録するために作成された証書などもある。これはしばしばシャリーア法廷が登記所や公証人役場の機能をもっていたと言われる所以でもある。証書の一類型であるが形式が異なるのは、遺産目録 defter-i kassam とワクフ文書 vakfiye である。前者は相続人に未成年者がいたり、相続人がいなかったり、あるいは遺族の間で遺産分割について異論があったりした場合などに作成される遺産の目録で、動産、不動産の評価額を一点一点記載し、故人の借金や手数料を差し引いた後に遺産分割法に則って各人の取り分を明記したものである。証書以外で裁判官が作成する文書として重要なのは判決書/上申書 i‘lâm である。二つの訳語を示したのは形式上区別し難いからであり、どちらも上位の者(大宰相や州の軍政長官など)に報告(i‘lâm)するという形をとる。Hüccet と i‘lâm はともに訴訟の結果を記すものだが、後者の文書が作成されるのは、一つには判決の執行を要請する目的であると考えられる。ただし、i‘lâm が記録されていない台帳も多く、その事情は十分に明らかにされていない。また、主にイスタンブルの諸法廷の台帳には ma‘rûz という標題のある文書が多く見られるが、これは形式的、機能的にi‘lâmと同一のようである。上申書としての i‘lâm には、一般に税や治安上の問題を含むものが多い。同様にカーディーの行政的役割を反映して、徴税に際して作成される「課税台帳 tevzî defteri」も17世紀末頃から記録されるようになる。そのほか、裁判官が同位または下位の者に発する命令を mürasele といい、台帳に最も頻繁に記録されているのは、カーディー職の本来の保持者からナーイブに当てられた任命状である。

上述のように法廷台帳にはカーディーの受領した文書の控えも掲載されており、その代表的なものは、カーディー宛の勅令 ferman や大宰相や軍政官の命令 buyuruldu であり、裁判官の地方行政における重要な役割を反映している。上記のような形式的な分類は、トルコ語以外の研究では一般的ではないが、法廷台帳が以上の分類に応じて分化(特化)されていたり、一冊の中で書き分けられていたりするので、十分に考慮する必要がある。なお、法廷文書が地域を問わずかなり画一化、形式化されていたことが知られている一方で、台帳の様式や記載された文書の種類などは、時代、地域によって相当の差があることも少しずつ明らかになっている。

シャリーア法廷や裁判官の多岐にわたる機能を反映して、法廷台帳には多様な情報が含まれている。法廷は、訴訟の審理以外に、公証人的役割つまり売買、賃貸借、婚姻契約、ワクフ設定などの証書作成と登記、そして、行政的役割つまりワクフの監督、孤児の財産を管理する後見人の監督、徴税及び徴税請負業務の監督、糧食や兵馬の徴発と供出、治安維持への協力、公定価格の設定、同職組合の監督などを担っていた。それゆえ、法廷台帳は、年代記や中央の文書にはなかなか見いだせない、地域社会における出来事や日常生活に関する情報の宝庫なのである。また、地方に残る史料がきわめて限られているオスマン帝国史料の残存状況からすれば、法廷台帳は地方社会の実情を知るための、最適の、ときに唯一の、史料なのである。

法廷台帳を用いた研究の代表的な手法は、台帳に記された情報を地方史(誌)、社会経済史、政治・制度史の史料として利用する方法である。この手法によって、地方名望家の経済・政治的活動、都市の経済(手工業、商業、農村との関係など)、徴税請負制度、同職組合の活動、ワクフ制度、賃貸借や商取引の慣行、資産保有の形態、都市のトポグラフィなどが研究されてきた。トルコでは、「人民の家 halkevi」設立などによってアナトリア地方社会への関心が高まった1930~40年代に、法廷台帳を用いて地方史(誌)が書かれ始めた。本格的な社会経済史研究は、やはり İnalcık (1953-54) に始まると言ってよいだろう。しかしこれが盛んになるのは1970年代以降であり、80年代までの社会経済史の代表として、Ergenç (1995)(博士論文は1973)、Faroqhi (1987)、シリアではRafeq (1981)、パレスチナではCohen (1989)を挙げておく。日本では早くも1976年に永田雄三による史料紹介があり、同年に資料集も公刊している(Nagata 1976)。

また、オスマン史研究における女性史の発展を法廷台帳の存在なしに語ることはできない。なかでもJennings (1975) は先駆的業績であり、オスマン社会の女性がたしかに財産を保有し、ときにそれを貸し付け、あるいは法廷に訴えたり訴えられたり、離婚の交渉をしたりしていたこと―今では常識となったが―に初めて光を当てたのである(女性史の代表例は、Tucker (1985), Sonbol (1996) など)。このほかにもJenningsには金銭貸借やワクフ、訴訟手続やカーディーの権限などに関する論考(1999)があり、これら法の運用に関わるテーマは90年代以降の新しい潮流を準備するものであった。

1990年代以降、法廷台帳を用いる研究の中で脚光を浴びているのは法社会史的アプローチである。法学的な立場から適用された法に関心を寄せる研究もあるが、近年の研究は、人々がどのような動機や背景から法廷に出向き、そして法廷の側がどのように法を適用していたのかを社会的文脈の中で探ろうとしている。女性や家族など、社会史的な関心から法廷台帳にアプローチしていた研究者たちは、台帳に記録された文書がきわめて簡潔で、断片的かつ形式的なものに過ぎないという、認識上の壁に気づかざるをえなかった。それは、史料としての法廷台帳それ自体を問題化することに直結する。すなわち、法廷文書が「事実」を映し出す鏡でないとすれば、それは「事実」をどのように翻訳し、どのように「現実」を構築しているのか、という問題に敏感にならざるを得ない。ここから、社会の「実態」を法廷史料を通して見いだそうとするよりも、人々の法廷/法との関わりに焦点を当てるような研究が現れてきている。そこでは法廷の制度も改めて問題にされている。このような法廷台帳の史料的問題を最初に意識化させたのはZe’evi (1998) であった。法社会史的研究から、やや大胆に理論化を試みたのが Gerber (1994) (邦訳:ガーバー 1996) であったが、その後、台帳の批判的読みに基づく代表的研究として、Ergene (2003) や、ジェンダー史でもあるPeirce (2003) が現れた。調書簿(zabıt ceridesi)を併用したAgmon (2006) もここに位置づけることができよう。日本では、ダマスカスのサーリヒーヤ法廷の台帳を用いた三浦 (1998) が法社会史的アプローチをとっている。

さて、シャリーア法廷台帳は、旧オスマン帝国の各地のものが伝世しており、その中で最古のものは、1455年のブルサの台帳である。主要都市では16世紀に遡れることも多いが、比較的小規模のカザー(カーディー管区、郡)の大半で19世紀以降の台帳しか存在しない。保存状況について言えば、トルコにおいては、イスタンブルの諸法廷の台帳はイスタンブル・ムフティー局附属文書館に集約され、現在ではデジタル化されて文書館以外でもイスラーム研究センター(İSAM)図書館で閲覧できる。イスタンブル以外の法廷台帳はアンカラの国民図書館 Millî Kütüphane に集められ、マイクロフィルム化された(のちに現物は首相府国家文書総局に移管)。マイクロは現在(2012年時点)İSAM図書館でも閲覧可能なほか*、マイクロをデジタル化したものが首相府オスマン文書館で閲覧できる(Meşihat分類)。そのほか、ブルガリアではキリル・イ・メトディイ国立図書館Национална библиотека „Свети Свети Кирил и Методий“の東洋部門(一部、デジタルライブラリーhttp://www.nationallibrary.bg/cgi-bin/e-cms/vis/vis.pl?s=001&p=0192&n=&vis=からダウンロード可能)、シリアではダマスカス歴史文書館Dār al-Wathā’iq al-Ta’rīkhīyaに所蔵されている。その他各地の所蔵状況については、とりあえず、Uğur (2009) とFaroqhi (1997) を参照されたい。カタログは、トルコについては、不備があるがAkgündüz (1988)、シリアはMarino and Okawara (1999)、マケドニアは BOA (1996) など。İSAM図書館はトルコ国外の法廷台帳のマイクロフィルム等のコピーの収集に力を入れており、それらの閲覧が可能である。

近年は法廷台帳の刊行が目覚ましい。なかでも (1) は、イスタンブルの諸法廷の台帳のうち40冊**を選んで現代トルコ語転写と写真画像を刊行したもの。イスタンブルについては、続刊の出なかった (2) があるほか、コンヤ (3)、ブルサ (4)(6)、スコピエ (5) などの転写版がある((5)はドイツ語訳付)。法廷台帳の現代トルコ語転写は、しばしばトルコの地方大学の修士論文として作成されており、それらの一部は高等教育機構YÖKのホームページからダウンロード可能だが、概して転写の質は低く、あまり信頼できないので注意を要する。

法廷台帳に関する概要は、Uğur (2009), Faroqhi (1997) の事典項目のほか、大河原 (2005), Akgündüz (1988-89; 2009), Bayındır (1986), Gradeva (2012) などを参照できる。研究史については、Ze’evi (1998), Agmon and Shahar (2008), Gedikli (2005) などがある。最後に、法廷台帳を読むためのガイドブックとして、sakkと呼ばれる裁判官のマニュアル(書式集)の重要性を指摘しておく (Kaya 2005)。

* İSAM図書館でも旧国民図書館所蔵のマイクロをデジタル化したので、パソコン上で閲覧することできる。

**İSAMのシリーズは、2012年に40巻の刊行をもって完結した。ウェブサイト上(http://www.kadisicilleri.or)で検索してテキストとオリジナル画像を閲覧することができる。

(秋葉淳)

【史料】

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(2012年3月作成、2014年3月最終更新)