官報 

官報とは、国の法令その他の公示事項を登載し、周知させるための国の機関紙である。世界の官報は、法令を紙面に掲載する大陸法系のものと、掲載しない英米法系のものに大別されるが、オスマン朝の官報は、すべての法令が載せられた訳ではないにせよ、以下のような特徴を有しているため、前者に属していると考えられる。

オスマン朝の官報は、(a) イスタンブルの中央政府が1831年から刊行したもの、(b) オスマン朝の一州でありながらも、19世紀の前半には事実上独立していたエジプトが、中央政府に先んじて1828年から刊行したもの、(c) 各州が刊行したもの、に大別される。このうち (b) は、中央政府から見れば (c)の範疇に入るが、ここではエジプトが、他の州とは異なる独特の位置を占め、しかも中央政府よりも先に官報を発刊したという点を重視し、別のものとして扱うこととする。

(a) 中央政府の官報は、オスマン朝第30代君主マフムト2世(在位1808-39)による改革の一環として、1831年に刊行された。オスマン朝においては、すでに18世紀末にはフランス語などの外字新聞が刊行され、1828年には上述のようにエジプトで官報が刊行されていたため、これがオスマン朝初の新聞という訳ではないが、エジプトを除く領内における、アラビア文字を用いた最初の継続的な新聞であるのは確かである。

「諸事暦報(Takvîm-i Vekāyi‘)」と名付けられたこの官報は、刊行時期によって大きく三つのシリーズに分けられる。第一シリーズは1831年から78年までの全2119号、第二シリーズは1891年から92年までの全283号、第三シリーズは1908年から22年までの全4608号である。この他に号外も存在した。なお、後述するIRCICA編のDVDの解説書では、第一シリーズを全2138号としているが、2120号から2138号までの官報は、そのDVDを含め、世界のいずれの図書館や研究機関においても収蔵されず、研究においても用いられていないため、その存在は疑わしいように思われる。また第一シリーズは、オスマン語の他に、フランス語、ギリシア語、アルメニア語、アラビア語、ペルシア語でも刊行された時期があったとされ、実物もいくつか確認されているが、その詳細は明らかにされていない。ただしフランス語版については、Nüzhet (1932) の紹介がある。

「諸事暦報」の紙面は、時代が進むにつれて整備されていくが、第一シリーズを例にとると、概ね次のような構成であった。まず記事は、大きく公式 (kısm-ı resmî) と非公式 (kısm-ı gayr-i resmî) に分けられ、前者には、叙任 (tevcîhât) や法令 (nizâmnâme, etc.) が、後者には内務 (mevâdd-ı dâhiliyye)、外務 (mevâdd-ı hâriciyye)、学術 (‘ulûm ve fünûn)、雑 (mevâdd-ı mütenevvi‘a)、公示 (mevâdd-ı i‘lâniyye) などの項目がたてられた。内務の項には、領内各地の出来事や各州からの報告が載せられ、外務の項には、ヨーロッパを中心とする世界各国の情報が記載された。そのなかには、数は少ないものの、日本や中国に関するものも存在した。この他、学術の項では、化学や地学の初歩的な知識も掲載された。

さて、「諸事暦報」は、オスマン朝の公式年代記を著した修史官と、制度的にも人事的にも密接に関連していた。「諸事暦報」刊行の辞には、以下のように記されている。「(前略)[歴史は、]とりわけオスマンの至高なる国家においても重視され、かつては王書読み (şehnâmehân)、その後は修史官 (vekāyi-nüvîs) の名で、歴史の叙述を専門とする官吏が任命された。[諸事件が]記され、また現在も記され、二、三十年間に収集された諸事件を印刷し江湖に供するは、久しき間の習わしである。ナイーマー、ラーシト、スブヒー、イッズィー、ヴァースフの歴史は、この一例である。しかし、現実の諸事件が起こったときには、広められることも明らかにされることもない。(中略)このため、[ムハンマド常勝軍の]総司令官 (Serasker Paşa) の御門の近くにおいて、国家によって、官立官報局 (Takvîm-i Vekāyi‘hâne-i ‘Âmire) という名称で、このための印刷所が用意され設置された。そして聖なるメッカ[のカーディー職]を退任した修史官シェイフザーデ・エッセイド・エサト・エフェンディが局長に、…任命された(後略)」。ここから、現職の修史官が官報局局長に任命されたこと、そして「諸事暦報」が、既存の修史官制度を基礎としながらも、それとは目的を異にし、情報の即時的な公開を目指して刊行されたことが理解されよう(「修史官年代記」の項も参照)。

また、エサトだけでなく、エサトの後任のレジャーイーと、その後任のナーイルも、官報局局長を務めることとなった。ナーイルの後任で、歴史家としても政治家としても有名なジェヴデトはこの職に就かなかったが、彼の後任のルトフィーは、エサトたちと同様に官報局局長も務めていた。修史官制度と「諸事暦報」には、このような人事上の繋がりも有していた。

(b)「埃及諸事 (Vekāyi-i Mısriyye, al-Waqā’i‘ al-Miṣriyya)」と命名されたエジプトの官報は、ナポレオンのエジプト侵攻に際して、中央政府によって派遣されたムハンマド・アリーが、改革の一環として1828年に刊行させたものである。刊行当初はオスマン語とアラビア語で記されていたが、後にオスマン語のみとなり、その後アラビア語のみとなった。ムハンマド・アリーの改革は、既存の軍の解体と新軍団の創設、徴税請負制の廃止、ヨーロッパへの留学生の派遣など、イスタンブル中央政府よりも先んじることが多かったが、官報の刊行についても同様であった。

(c)各州の官報には、当然その州の情報が掲載されたが、それに加えて「諸事暦報」の記事も引用された。「諸事暦報」のコンテンツの一部が、各州の官報を通じて、「諸事暦報」の刊行部数以上にオスマン朝の領内に広く行き渡っていたことは重要である。他方、「諸事暦報」の内務の項目には、上述のように各州からの情報が掲載された。

また、佐原(2003)が実例を示しながら指摘しているように、州の官報は、その土地の言語状況を反映して、複数の言語で併記されることがあった。たとえばトゥナ(ドナウ)州の官報はオスマン語とブルガリア語で、ボスナ州、プリズレン州の各官報は、オスマン語、セルビア語、クロアチア語で、そしてセラーニキ州の官報は、オスマン語の他、ギリシア語、ブルガリア語、ユダヤ・スペイン語で記されていた。このように各州の官報は、オスマン社会における情報の流通や共有を考えるとき、ひときわ興味深い対象であり、今後の研究の進展が期待される。

「諸事暦報」を、号外を含め完全に所蔵している機関は、おそらくどこにも存在しないが、近年、IRCICAによって、ほぼすべての号がDVD化された。なお数号の欠落があるとはいえ、現時点では、このDVDを参照するのが最も効率的である。ただし、2012年7月現在において、これを所蔵している国内の機関は、東京大学東洋文化研究所のみである。パソコンの画面ではなく、実物を手に取って閲読したい場合は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に、相当まとまったコレクションがある。江川(1986)は、それを紹介しつつ、「諸事暦報」の概要を日本で初めて示したものである。また、東京大学東洋文化研究所および明治大学トルコ文庫にも、オリジナルあるいは複写・製本されたものがいくつか所蔵されている。

「諸事暦報」は、マフムト2世期以降の基本的な史料であるため、これを用いた研究は数多く存在する。しかし、網羅的に用いた研究となると、非常に限られるように思われる。近年の研究は、官報などの刊行史料よりも、未刊行の文書史料を好んで用いる傾向にあるが、一般的に言えば、刊行史料の方が体系的な情報を得やすい。刊行史料を博捜したうえで未刊行史料に接近するのが、望ましい方法のように思われる。なお、各州の官報は、その体系的な収集こそが第一の課題である。トルコ国内の所蔵機関については、Duman (2000, 1986) が網羅的であり、そのほか個別の図書館の定期刊行物蔵書目録として、Millî Kütüphane (1987), HTU (2010) がある(「新聞1870年代まで」の項も参照)。

「諸事暦報」自体に関する研究としては、Koloğlu (1981) などの概説やYazıcı (2010) などの辞典項目、Orhonlu (1968) やYazıcı (1983) などの史料紹介の他、「諸事暦報」と「埃及諸事」をともに扱ったKoloğlu (1989) がある。英語では、とくに「埃及諸事」に詳しいAyalon (1995) が、社会史的な観点から出版を論じている。「諸事暦報」のほぼすべての号の刊行日と頁数の一覧である長谷部(2004)と、第三シリーズに掲載された議会議事録の索引である藤波(2008)も、それぞれ有益であろう。

州の官報については、一般的に解説したものとして、Kocabaşoğlu and Birinci (1995), Varlık (1985) がある。Pistor-Hatam (2001) の論集では、トゥナ、バグダード、スィヴァスなどの州官報が扱われているほか、個別には、トゥナ州の官報に関するKocabaşoğlu (1991)、イエメンの官報(Ṣan‘ā’)に関するUrsinus (1989) などがある。州の官報を用いた研究としては、日本語の佐原(2003)、稲葉(2003)を挙げておく。

(長谷部圭彦)

【史料(復刻版)】

  • IRCICA ed. 2006. Takvîm-i Vekâyi‘. DVD Version. Istanbul: IRCICA.

【参考文献】

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  • [Milli Kütüphane Başkanlığı]. 1987. Eski Harfli Türkçe Süreli Yayınlar Toplu Kataloğu. Ankara: Kültür ve Turizm Bakanlığı.
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  • 佐原徹哉 2003. 『近代バルカン都市社会史:多元主義空間における宗教とエスニシティ』刀水書房.
  • 長谷部圭彦 2004. 「オスマン帝国『官報』」長澤榮治『アラビア文字圏近現代データベース形成の手法の研究』科学研究費補助金研究成果報告書(平成13-15年度),5-145.
  • 藤波伸嘉 2008. 「『官報』所収オスマン帝国議会議事録索引:第二次立憲政期第一議会」『東洋学報』89(4): 25-43.

(2012年8月作成)