枢機勅令簿 Mühimme Defteri
御前会議Divan-ı Hümayunにおいて決定された勅令の写しである枢機勅令簿Mühimme Defteriは、オスマン朝史研究において、もっとも広く利用されてきた史料のひとつである。とりわけ後で詳述する理由から、16-18世紀を研究するに際しては、枢機勅令簿は史料の連続性と記述内容の多様性の両面において、きわめて重要な史料群を形成している。このため現在に至るまで、枢機勅令簿は非常に多くの研究で主要な史料として用いられてきた。
御前会議は、おおよそ18世紀に至るまで長らくオスマン朝における最高意思決定機関としての役割を担ってきた(18世紀以降、会議そのものは形骸化し、御前会議局という官僚組織が勅令の起草・発行・保管にあたった)。そのため、御前会議の決定を記録した枢機勅令簿の内容もまた、経済政策から都市行政、地方統治、各国との外交関係、軍事遠征、果ては個人的要望への対処まで非常に多岐にわたる。こうした記述内容の豊富さこそが、これまで枢機勅令簿が史料としてさかんに用いられてきた最大の理由のひとつであろう。
ただし、枢機勅令簿が、御前会議において決定がなされてから、当該問題についての勅令が作成されて発送されるまでのどの過程において記録されたのかについては、議論の余地がある。これまでのところ、枢機勅令簿は「勅令の草稿を写したもの」であろうとするHeyd(1960)の見解が一般に受け入れられている。
勅令の写しである枢機勅令簿を理解する前提として、勅令という文書そのものの構成要素についても触れておく必要があろう。勅令については、高松 (2005) に詳細な説明がなされているように、勅令は、神への呼びかけ、トゥーラ(君主の花押)、受取人への呼びかけ、受取人のための祈祷、陳述、命令、戒告、日付、発行地の9つの要素からなる。このうち、枢機勅令簿では、神への呼びかけ、トゥーラ、日付および発行地は省略される。また、受取人への呼びかけにおける称号 (elkab) や、受取人のための祈祷 (dua) も省略されるか大幅に簡素化されることが多い。日付については、16世紀後半の枢機勅令簿では勅令数点をまとめて記述されることが多く、これは書記が勅令草稿を枢機勅令簿に写した日付であると考えられている。この他、当該の勅令を現地にもたらす伝令の名とともに引き渡し日も上部に記載される。発行地は、君主が遠征中の際には滞在場所の名が記され、副都であったエディルネ滞在中にはその旨が明記されることもあるが、イスタンブルにいる場合には省略される。
上記の要素のうち、陳述部分には嘆願書や地方からの報告書など、勅令発行の発端となった文書の要約が含まれる場合が多く、最も情報の豊富な部分である。とくに、嘆願書や報告書の実物がほぼ皆無である16、17世紀については、「現場」の声を間接的にであれ聞くことのできる貴重な情報源なのである。
なお、勅令は、一般にフェルマーンfermanとして知られているが、18世紀の事例を調査した髙松 (2005) によると、勅令の最も代表的な名称は「聖なる命令」を意味するエムリ・シェリーフemr-i şerif、ついで用いられるのは「高貴な命令」を意味するエムリ・アーリーemr-i aliである。また16世紀後半においては、命令を意味するエムルに加えて同義語であるヒュキュムもしばしば用いられることを付記しておく。
枢機勅令簿がいつ頃から作成され始めたのかは、あきらかではない。現在のところ、16世紀中頃に作成されたものが伝世しており、確認されている最古の枢機勅令簿は、ヒジュラ暦951/52年(西暦1544/45年)のものである。この帳簿は、トプカプ宮殿博物館文書館Topkapı Sarayı Müzesi Arşiviに所蔵されており、(9)として刊行されている。また別の一冊は、トプカプ宮殿博物館図書館Topkapı Sarayı Müzesi Kütüphanesiに所蔵されているヒジュラ暦959年(西暦1552年)のものであり、こちらは残念ながら未刊行のままである。その他、刊行されている枢機勅令簿としては、首相府オスマン文書館から出版された(1)~(8)および、学位論文を出版した(10)~(12)がある。
枢機勅令簿は、Römer (2010) が紹介するようなヨーロッパに散在するとされるごく一部を除けば、そのほとんどが首相府オスマン文書館Başbakanlık Osmanlı Arşiviに保管されている。同文書館には、Mühimme Defterleriフォンドがあり、ここにはヒジュラ暦961年(西暦1554年)から1323年(同1905年)までの266冊(14番が2冊存在する一方で20番は所在不明)が分類されている。ただし実際には、David (2002) や澤井 (2006) が指摘するように、この266冊のすべてが枢機勅令簿というわけではなく、文書館において同フォンドがつくられた際に誤って分類されて混入した台帳も多く存在する。その一方で、このフォンド以外にも首相府オスマン文書館には数多くの枢機勅令簿が存在していることには注意しておく必要がある。
たとえば、後に枢機勅令簿であると確認された史料は、枢機勅令簿補遺として設置されたMühimme Zeyli Defterleriフォンドに分類されている。2012年2月現在、同フォンドには18冊(980-1195/1572-1780年)が存在しており、今後も新たに枢機勅令簿と認められた台帳はこのフォンドに追加されるであろうことから、この数はさらに増加すると考えられる。これ以外にも、軍事遠征に関連する軍事枢機勅令簿Mühimme-i Asakir Defterleriフォンドには68冊(1196-1328/1781-1910年)、機密事項が記された機密枢機勅令簿Mühimme-i Mektume Defterleriフォンドには10冊(1203-1302/1788-1885年)、エジプトに関するエジプト枢機勅令簿Mühimme-i Mısır Defterleriフォンドには15冊(1119-1333/1785-1915年)などが存在する。
Emecen (1991) があきらかにしたように、枢機勅令簿は軍事遠征の際にしばしば持ち出された。これは、政務の最高責任者である大宰相自身が、総司令官として遠征に赴いた際に遠征先で枢機勅令簿が作成される際に必要とされたためであるとされる。こうした遠征先で作成された枢機勅令簿は、軍営枢機勅令簿Ordu Mühimmesiとして知られ、その内容は必ずしも当該の軍事遠征に関連するものに限定されているわけではない。しかし、16世紀後半のものについて言えば、その記述内容は特定の軍事遠征や、その論功行賞についてのものに限定される傾向があり、本来は枢機勅令簿ではなかった史料が後に誤って分類され、枢機勅令簿フォンドに混入している可能性が高い。軍営枢機勅令簿は、上述の軍事枢機勅令簿フォンドの他、枢機勅令簿フォンドにも散在している。
また、これらのフォンドとは別に、誤ってまったく別のフォンドに分類されたままとなっている枢機勅令簿も少なくなく、この問題についてはBOA (2010) および澤井 (2006) を参照されたい。
枢機勅令簿という名称それ自体は、実は17世紀末になってようやく史料上で確認することができる。それ以前の時代には、「お上の諸命令Miri ahkâm/Ahkâm-ı miri」あるいは「諸命令の記録簿Kuyud-ı ahkâm defteri」などと呼ばれていた。なお、わが国においては、かつて「御前会議重要議事録」と訳されていたこともあったが、本史料はそもそも議事録ではないため、訳語としてあまり適当ではない。
初期の枢機勅令簿は、御前会議に属した書記たちによって記録されていたと考えられている。その後、オスマン朝における官僚組織の発展とともにベイリクチ局Beylikçi kalemiが成立すると、枢機勅令簿は同局の所管となった。ここで働く書記たちのうち、枢機勅令簿にかかわる者たちは、「枢機勅令簿書記Mühimme-nüvis」と呼ばれた。ヒジュラ暦1211年(西暦1796年)に枢機勅令簿を専門的に扱う部署として枢機勅令部Mühimme Odası が設置されると、同部に所属する書記たちが職務を継続した。こうしたオスマン朝の文書や帳簿と官僚機構との関係、勅令が作成され帳簿に記録されるまでのプロセスについては高松 (2004; 2005) が非常に詳しい。
しかし、枢機勅令簿の記録の分量は時代を下るにしたがって漸減し、それと並行するかたちで史料としての相対的な重要性もまた低下する傾向にあることは否めない。これは以下のような理由による。すでに述べたように、16世紀においてはオスマン朝の政府高官たちが重要であると認識した事象は、概ね枢機勅令簿に記録されていた。そのため、枢機勅令簿の分量は膨大となり、またその記述内容も非常に多岐にわたるものであった。しかし、ヒジュラ暦1059(西暦1649年)になると、それまでの枢機勅令簿の記述内容に大きな割合を占めていたオスマン領内に住む人々の個人的な要望に対処するための命令は、異議申し立て台帳Şikâyet Defteriと名付けられた別個の台帳群に記録されるようになった。さらに、ヒジュラ暦1110年(西暦1699年)以降は、外交交渉に際して外国君主に送る親書Name-i Hümayunもまた、親書台帳Name- Hümayun Defteriと呼ばれる別の台帳に記録されることとなった。
18世紀以降になると、こうした台帳の専門家、細分化の傾向はますます顕著となり、上に記した軍事枢機勅令簿フォンドや機密枢機勅令簿フォンドあるいはエジプト枢機勅令簿フォンドに見られるような史料群が相次いで成立した。その結果、16世紀後半においては半年から1年に1冊程度枢機勅令簿が作成されていたのに対し、例えばMühimme Defterleriフォンドの263番台帳では、わずか1冊に37年分の記録が詰め込まれるほどに1年あたりの記述量は減少するに至った。以上のようなことから、枢機勅令簿を用いた研究もまた、16世紀中頃から18世紀までに集中する傾向を見せているのである。
最後に枢機勅令簿についての研究を挙げておく。枢機勅令簿の事典項目としては、Faroqhi (1993) およびKütükoğlu (2001) がある。古典的研究では、Elezović (1951) とHeyd (1960) があり、Peacy (1986) はヘイドの見解を批判するものである。David (2002) は、様々なリストが付属しており有用ではあるが、誤りも多く、また論文自体は1980年代の研究であることに注意が必要である。現在のところ、もっとも参照すべき論文はEmecen (2005) であろう。
枢機勅令簿を用いた代表的研究は非常に多く、またテーマも多岐にわたるため、この点については、David (2002) 所収のリストやEmecen (2005) を参照されたい。日本語のものとしては、先駆的業績として永田 (1974) のほか、近年では、伊藤 (1999) や澤井の一連の論文がある。
(澤井一彰)
【史料】
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(2012年3月作成、2012年8月更新)