諷刺雑誌と諷刺画 mizah dergisi/ karikatür
諷刺の近代 およそどの時代,どの地域にも,権威や権力や既存の価値を「笑い」とともに批判する諷刺の精神は存在する。それを表現する手段や場としての諷刺の文化も存在する。オスマン帝国も例外ではない。古くは,詩文を中心とするディーワーン文学や,口承・芝居などの民衆文学(ナスレッディン・ホジャ,ケルオーラン,カラギョズなど)にも見いだすことができる。世界の他の地域と同様に,オスマン帝国でも諷刺の精神と文化は育まれていた(Durmuş et al. 2005; Fenoglio and Georgeon 2007)。
そうしたオスマン帝国の諷刺文化が「近代」を迎えるのは,19世紀に入ってからのことである。18世紀末から19世紀初頭にかけて,まずオスマン領内の居留民が外字新聞を発行し,やがて非イスラーム教徒臣民も各自の言語と文字で新聞雑誌を発行しはじめた。19世紀半ば以降はアラビア文字表記のトルコ語,すなわちオスマン語による新聞雑誌の数も増加した(佐々木2014)。こうして形成された多言語・多文字の言論空間たるオスマン・ジャーナリズムの世界のなかで,オスマン帝国の諷刺文化は新聞雑誌に表現の場を拡大することになる。
タンズィマート期(1850-70年代) 使用される言語や文字に限定を加えなければ,オスマン帝国における諷刺雑誌の嚆矢は,オスマン・アルメニア人のホヴセプ・ヴァルタニヤン(ヴァルタン・パシャ,1815-79年)が1852年にアルメニア文字表記のトルコ語(アルメニア・トルコ語)で発行しはじめた『おしゃべりな男Boşboğaz Bir Adem』に求めることができる。その後,アルメニア・トルコ語やアルメニア語で『メグMeğu』(蜜蜂,1856-74年),『マムルMamul』(手紙,1869-83年),『タドロンTadron』(演劇,1874-77年),『ミモスMimos』(道化,1875-76年)などが発行された(発行年代には諸説あり)。オスマン近代における初期の諷刺雑誌の発行を牽引したのは,オスマン帝国に住まうアルメニア人であった。
諷刺雑誌には,諷刺画(カリカチュア)をともなうものが少なくない。1858年に制定された帝国刑法の第139条には,「公序良俗âdâb-ı ‘umûmiyyeに反して,韻文ならびに散文で嘲弄諷刺hezl ü hicvに類する事柄を,もしくは不適切な図画肖像resm ü tasvîrを印刷し,また印刷させ,そして頒布する者」に対する罰則が規定されている(Düstûr, 1st series, vol. 1, 1289, p. 568)。当時はオスマン語の諷刺雑誌が存在していなかったから,ここで想定されている罰則規定の対象は,オスマン・アルメニア人を含む非イスラーム教徒臣民の諷刺雑誌や,オスマン領内で発行されていた外字新聞ということになる。
オスマン帝国で多くの人びとが使用していたオスマン語による諷刺雑誌の登場については,いくつかのステップがある。まずは,1866年創刊の政論新聞『イスタンブルİstanbul』の紙面に,諷刺を目的とする図画が掲載されはじめた。次いで,1868年創刊の政論新聞『進歩Terakkî』の付録ないし号外として,1870年10月に『進歩の楽しみTerakkî Eğlencesi』が登場した。そして,その3週間ほどのちに創刊された『ディオゲネスDiyojen』(1870-73年)が,オスマン語による独立した諷刺雑誌の嚆矢となる。誌名は,古代ギリシアの「樽の哲人」,スィノペ(スィノプ)のディオゲネスに由来する。じっさい,同誌の毎号第1ページ目の上段には,樽のなかに座るディオゲネスとその前にたたずむマケドニアのアレクサンドロス大王とが言葉を交わす有名なシーンが掲げられた。そのキャプションには,「影を作るな,ほかに施しは要らぬから」というディオゲネスの言葉が記されている【図1】。中部アナトリアのカイセリ生まれのギリシア正教徒で,フランスでの長期滞在の経験もあった発行人のテオドル・カサプ(1835-97年)は,オスマン語のみならずフランス語,ギリシア語,アルメニア・トルコ語でも同誌を発行した。オスマン語による初の諷刺雑誌は,多言語・多文字の言論空間たるオスマン・ジャーナリズムの世界に開かれていた。
この『ディオゲネス』を嚆矢として,1870年代にはオスマン語の諷刺雑誌が叢生期を迎える。先述のテオドル・カサプは,オスマン政府の言論統制で廃刊を余儀なくされた『ディオゲネス』に代わり,『鈴持ち飛脚Çıngıraklı Tatar』(1873年)や『幻灯Hayâl』(1873-77年)を発行した【図2】。そのほか,この時期に現れた諷刺雑誌として,『演劇Tiyatro』(1874-76年),『カラ・スィナンKara Sinan』(1874-75年),『カフカハKahkaha』(1875年),『鳶Çaylak』(1875-77年),『メッダーフMeddâh』(1876年)などがある。いずれも短命に終わったとはいえ,これらの諷刺雑誌に掲載された諷刺画は,当時の社会や風俗を知る手がかりとしても貴重な史料となる。
さて,現代と同様,当時のオスマン帝国に住まう人びとも,権威や権力を相対化する手段としての諷刺雑誌や諷刺画に一目置き,また「出版の自由」や「表現の自由」の文脈でその意義を議論した。1876年に帝国憲法(ミドハト憲法)が発布され,翌年に帝国議会が召集されると,出版印刷法の改正が議題に上った。なかでも大きな論議を巻き起こしたのは,ほかならぬ諷刺雑誌の扱いであった。
オスマン政府が提出した改正法案の第8条には,「オスマン領で諷刺mizahに特化した新聞は禁止される」とする文言が盛り込まれていた。これに対して議員からは,ヨーロッパ諸国にも諷刺雑誌は存在すること,また法律の範囲内であれば発行を許可すべきであること,などの発言が相次いだ。ヨーロッパ諸国の識者のなかにも諷刺雑誌をよく思わぬ者は多いと反論する当時の出版印刷局長マージト・ベイの発言に対しては,イスタンブル選出のハサン・フェフミー・エフェンディが,「かりに諷刺新聞mizah gazeteleriが他国に存在しないとしよう。ならば,それはわれわれが作り出さねばならない」として諷刺精神の価値に対する理解を示し,また「[諷刺は]道徳ahlâkを損ねるという。カラギョズあり,コメディあり,カジノあり,その他もろもろの娯楽あり。これらもじつに道徳を損ねている。[諷刺雑誌の発行を禁止するのであれば]これらも禁止せねばならぬ」として,諷刺雑誌の発行の自由を強力に擁護した。同じくイスタンブル選出のセブフ・エフェンディは,「この出版印刷法[の法案]が現れてからというもの,われわれは奇妙奇天烈なことを耳にしている。いわく,出版印刷は火薬barutのごとし,諷刺はペテンsoytarılıkのごとし。こうした妄言を一掃せねばならぬ」として,議論を出版印刷全般の是非にまで広げた。けっきょく,諷刺雑誌の発行禁止に関する条項は否決された(Us 1939: 212-217)。オスマン史上初の議会で「表現の自由」や「出版の自由」をめぐって交わされた論戦が,諷刺雑誌の発行の是非をめぐるものであった点に注意したい。
専制期(1877-1908年) ところが,ときのスルタン,アブデュルハミト二世(在位1876-1909年)は,オスマン・ロシア戦争(露土戦争,1877-78年)の勃発に際して,君主の非常大権を規定した帝国憲法第113条にしたがって戒厳令を布告した。これにより,諷刺雑誌の発行も禁止された。以後,オスマン近代の諷刺文化は,産声を上げてまもないオスマン憲政もろとも30年間凍結されることになる【図3】。
こうして発行の自由を奪われたオスマン近代の諷刺雑誌は,新たな表現の場を求めて「青年トルコ人といっしょに流亡の途に就いた」(Çeviker 1986a: 271)。この時期にオスマン領外(実質的にオスマン領から外れていたエジプトも含む)でオスマン人が発行した諷刺雑誌として,たとえば『幻灯Hayâl』(ロンドン,1895年),『ハミディエHamidiyye』(ロンドン,発行年代不明),『ベベルーヒBeberûhi』(ジュネーヴ,1898年),『しみったれPinti』(カイロ,1898年),『大太鼓Davul』(発行地不明,1900年),『ドラーブDolâb』(フォークストン,1900-01年),『木槌Tokmak』(ジュネーヴ,1901年),『ジュルジュナCurcuna』(カイロ,1906年)などがある。
これらの雑誌は,専制批判をもっぱらとした。とくにアブデュルハミト二世の身体的特徴,わけてもその巨大な「鼻burun」は専制批判の諷刺画の格好の題材となった【図4】。そうした「鼻」の諷刺画だけを集めた異色の画集として,Çeviker (1988b)がある。また,アブデュルハミト二世の「東洋的専制」は,むろん当時のヨーロッパ人の好奇と嘲笑の対象となった。ヨーロッパ人の手になる諷刺画に見えるアブデュルハミト二世および同時代のオスマン帝国の「歪んだ」イメージについては,Alkan (2006)の紹介がある。
青年トルコ革命以降(1908-23年) 1908年7月の青年トルコ革命によって専制期が終わり,厳しい言論統制が緩和されると,他の定期刊行物と同様,諷刺雑誌も「出版爆発Basın Patlaması」(Koloğlu 2005a)や「カートゥーン革命cartoon revolution」(Brummett 2000)と呼ばれる再興期を迎えることになる【図5】。すでにタンズィマート期に最初の興隆を経験していたこと,またアブデュルハミト二世の時代に印刷や編集などの面で技術革新が進行していたこともあり,この時期の諷刺雑誌は決して一からのスタートではなかった。じっさい,前時代の蓄積を踏まえてこの時期に再興した諷刺雑誌は,大きく二つの系統に分類することができる。一つは,タンズィマート期の形式と趣向を備えた『カラギョズKaragöz』(1908-51年)に代表される諷刺雑誌である。もう一つは,『カレムKalem』(筆,1908-11年)や『ジェムCem』(1910-12年)に代表される西洋近代的な諷刺雑誌である。
「伝統派」とも呼ぶべき前者の系統の諷刺雑誌は,タンズィマート期の諷刺雑誌のおもむきを意識的に追求した。たとえば,タンズィマート期の『幻灯』がオスマン庶民の伝統的影絵芝居「カラギョズ」の登場人物の対話に託して諷刺をおこなっていたように,『カラギョズ』をはじめとする青年トルコ革命期の「伝統派」の諸誌も,諷刺の表現形式としてこの対話形式を踏襲した。1870年代に発行されたいくつかの諷刺雑誌に多くの作品を発表した諷刺画家のアリ・フアト(?-1919年)は,『カラギョズ』でも画筆をふるった。
他方,「西洋派」ないし「近代派」とも呼ぶべき後者の系統の諷刺雑誌では,ヨーロッパ諸国に留学した経験を持つ者,また1883年に創設されたイスタンブルの美術学院(Sanâyi‘-i Nefîse Mektebi)で学んだ者が諷刺画の制作に携わった。これらの人びとは,それまで新聞雑誌の装飾の一部と見なされがちであった諷刺画を,芸術の一ジャンルとして確立し,諷刺の独自の表現形式として磨き上げることに貢献した。なお,『カレム』については,イスタンブルの名門校ガラタサライ・リセ(Galatasarây Mekteb-i Sultânîsi)で学び,行政学院(Mekteb-i Mülkiyye)や美術学院でも学業を修めた編集人の一人,ジェラール・エサト・アルセヴェン(1875-1971年)の回想録がある(Arseven 1993)。
この時代にあっても,表現の自由と公序良俗と個人の嗜好や信念とのバランスを保つことに,諷刺雑誌は意を用いていた。たとえば『カレム』の創刊号には,「たしかに,出版は自由だ。しかし,一般的な道徳ahlâk-ı ‘umûmiyyeを傷つけたり,国民的な嗜好hüsn-i zevk-i millîを損ねたりしてはならない」(Kalem, no. 1, 3 Sept. 1908, p. 3)とある。他方,オスマン・ジャーナリズムの視点から眺めてみると,短命ながらオスマン語,フランス語,ギリシア語,アルメニア語の4言語で発行された『奇術師Hokkabâz』(1908年)のほか,アルメニア・トルコ語でもいくつかの諷刺雑誌が発行されているように,多言語・多文字の言論状況に対応する出版環境が保たれていたことがわかる【図6】。
さて,1908年の「出版爆発」によって30以上の諷刺雑誌が登場したといわれるものの,その多くは短命に終わり,翌年には3分の1にまで減少したという。この傾向は,続くバルカン戦争や第一次世界大戦を経てさらに進行し,大戦終結の時点でオスマン語による諷刺雑誌は『カラギョズ』のみという状況になった。同誌はその後,トルコ共和国の成立をはさんで20世紀半ばまで発行を継続することになる。
いっぽう,『カレム』や『ジェム』など「近代派」の諷刺雑誌の継承者を自任して,大戦終結直後に登場したのは『棘Diken』(1918-20年)であった。同誌の創刊号では,「4年間の戦争」で「泣くことに慣れきった国民が心安らかに笑い出すこと」,そのために『カレム』と『ジェム』以来の諷刺雑誌の空隙をみずから埋めることが高らかに謳われている(Diken, no. 1, 30 Teşrîn-i Evvel 1918, p. 2)。同誌で活動したセダト・スィマーヴィー(1898-1953年)らは,大戦中に出現した戦争成金(yeni zengin)を嘲笑する諷刺画を発表するなど,史上初の「世界戦争」に直面したオスマン社会の歴史的経験を諷刺画の形で残すことにも貢献した。
オスマン末期の諷刺雑誌は,帝国の終焉に寄り添うとともに,混乱期をまたぎこえてトルコ共和国の諷刺文化の一角を占めることにもなる。第一次世界大戦の敗戦国となったオスマン帝国に対して,戦勝国(連合国)による占領と分割の動きが加速すると,「独立戦争İstiklâl Harbi」や「解放戦争Kurtuluş Savaşı」,あるいは「国民闘争Millî Mücadele」などと呼ばれる抵抗運動が始まり,やがて連合国を後ろ盾とするオスマン朝のイスタンブル政府と,ムスタファ・ケマルのアンカラ政府との二重権力状態が生じた。オスマン末期の諷刺雑誌の論調ならぬ画調も,この局面で二極化した。たとえば,『棘』の実質的な後継誌として発刊された『笑顔Güleryüz』(1921-23年)は,アンカラ政府を支持する,まさにその一点に雑誌の命運を賭した。いっぽう,イスタンブル政府を支持した『アイデデAydede』(お月様,1922年)は,やがて『アクババAkbaba』(ハゲワシ,1922-77年)と誌名を変えて,オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の成立という難局を乗り切り,20世紀後半まで続く共和国史上最長寿の諷刺雑誌となった。こうして,オスマン時代の諷刺文化の大きな部分が,帝国の後継国家の一つであるトルコ共和国に引き継がれていくことになる。
研究動向 オスマン時代の諷刺雑誌および諷刺画は,これまでもっぱら出版文化史ないしジャーナリズム史のなかで取り上げられる傾向にあった。そうした研究のなかでも,当時の全体的な状況を俯瞰する代表的な著作として,たとえばÇapanoğlu (1970),Çeviker (1986a; 1988a; 1991),Koloğlu (2005b)がある。とくにチェヴィキエルT. Çevikerの3巻本は,主要な諷刺雑誌や諷刺画家に関する基本情報を網羅し,図版も多数収載している点で,この分野の現時点での決定版ともいうべき位置にある。アルメニア・トルコ語の諸誌の動向にも触れているなど,多言語・多文字の言論空間としてのオスマン・ジャーナリズムの世界への目配りも忘れていない。より簡潔で要を得た紹介として,トルコ語ではVarlık (1985)とÇeviker (1985)がある。Çeviker (1986b; 1989)は,オスマン近代の無署名の諷刺画をまとめた便利な画集である。欧米諸語による紹介や研究は少ないが,1870年代についてはŞeni and Georgeon (1992)が,また青年トルコ革命期については後述するBrummett (2000)が見取り図を示してくれる。
近年では,社会史や文化史の分野を中心に,歴史叙述のための史料として諷刺雑誌や諷刺画の利用を試みる研究が現れている。タンズィマート期の『ディオゲネス』と『鳶』をオスマン人の文明観や「西洋かぶれİllet-i Frengî」といった切り口から分析したÖzdiş (2010),青年トルコ革命期の諷刺画を文化帝国主義批判の観点から分析したBrummett (2000),バルカン戦争期の「敵味方」のイメージを『カラギョズ』『カレム』『ジェム』の3誌を軸に読み解くHeinzelmann (2004)などは,単なる絵解きに終わらぬ歴史叙述の試みといえる。
課題と展望 オスマン近代の諷刺雑誌および諷刺画の歴史的展開を考えるにあたり,「西洋化」の問題を避けて通ることは難しい。むろん,西欧諸国で蓄積された作画や製版のノウハウをオスマン人が積極的に学び,利用していた点は否定しがたい。オスマン近代の諷刺雑誌は,その意味でたしかに「西洋化」の所産であった。しかし,その「西洋化」の産物であるはずのオスマン近代の諷刺雑誌が諷刺の対象としてさかんに取り上げたのは,行きすぎた「西洋化」であった。そして,同じオスマン近代の諷刺雑誌が,そうした「西洋かぶれ」と裏腹の関係にある「伝統」への過度の固執,すなわちオスマン人の「頑迷」や「固陋」をも返す刀で嘲笑していることが,事態をさらに複雑にする【図7】。
他方,古典詩や物語や芝居などを通して培われてきたオスマン社会の諷刺文化は,19世紀になって出版印刷がさかんになると,諷刺雑誌に新たな表現の場を見いだした。たとえば,影絵芝居「カラギョズ」の登場人物カラギョズとハジヴァトは,「舞台」を諷刺雑誌の紙面に移し,あるときは諷刺のコメンテーターとして,またあるときは諷刺劇の役者として縦横無尽に飛び回る。ここには,「西洋化」だけに還元できない,オスマン帝国の多面的で複線的な近代化プロセスの一端を垣間見ることができる。
こうしたプロセスのなかで形成され,更新されていくオスマン帝国の諷刺文化は,イスラーム教徒やトルコ人の専有物ではなかった。オスマン近代の最初の諷刺雑誌がアルメニア・トルコ語によって発行されたこと,また1870年代に相次いで諷刺雑誌を発行したテオドル・カサプがギリシア正教徒であったことからもわかるように,オスマン近代の諷刺文化は,多言語・多文字の言論空間たるオスマン・ジャーナリズムのなかで育まれた。Fenoglio and Georgeon (2007)には,20世紀初頭のオスマン帝国で発行されたギリシア語やアルメニア語の諷刺雑誌を扱った論考が収載されており,オスマン・ジャーナリズムの世界における非トルコ語・非アラビア文字の新聞雑誌の分析に向けた可能性が示されている。
オスマン時代の諷刺雑誌や諷刺画を扱った日本語による学術論文は,今のところ現れていない。現代トルコの「漫画文化」の起源としてオスマン末期の諷刺画を紹介する試みとして,横田(2008)がある。今後は文化研究のみならず,歴史学の分野でもオスマン時代の諷刺雑誌や諷刺画を積極的に用いた研究の出現が見込まれる。じっさい,ハック・タールク・ウス・コレクションやトルコ共和国国立図書館(Milli Kütüphane)などのウェブサイトを通して,史資料の画像の入手は格段に容易になった。ただし,質の高い研究成果を出すためには,新聞雑誌の記事や図画などのテクストだけでなく,それらが置かれた政治的・社会的・文化的なコンテクストを読み抜く力が求められる。Heinzelmann (2004)も指摘しているとおり,とくに「その時代に暮らしていた読者であれば容易に理解できたはず」の日常的な所作や感覚や知恵や噂についての知見を深め,当時の「笑い」のツボをおさえることは,諷刺雑誌を歴史研究の史料として利用するうえで不可欠である。諷刺雑誌の読み解きは,ときとして政論新聞や文芸誌よりもはるかに難しい場合があることに注意したい。
(佐々木 紳)
【史料】
※オスマン時代から共和国初期にかけての諷刺雑誌の多くは,下記のウェブサイトで閲覧できる。
トルコ共和国国立図書館(Milli Kütüphane)
ハック・タールク・ウス・コレクション(Hakkı Tarık Us Collection)
【参考文献】
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(2015年3月作成)