ファトワーとファトワー集 Fetva / Fetva Mecmuası

ファトワーとは、法学上の問題に対してイスラーム法学者が法解釈を示した回答のことであり、法学意見、法学裁定などと訳されることもある。ファトワーを出すことのできる法学者をムフティーと呼び、オスマン朝以前においては、権威ある法学者から免状(イジャーザ)を授与された者がムフティーの資格を得られたが、オスマン時代には、イスタンブルのムフティーであり、帝国における法学の最高権威であるシェイヒュルイスラームが menşûr と呼ばれる任命状によって各地のムフティーを任命するのが原則であった。ただし、戦略的に重要なポストを除いては、地域社会のなかでもっとも権威あるウラマーがムフティーに選出され、シェイヒュルイスラームはそれを追認するのが通例であった。

ファトワーは口頭でも書面でも出されたが、口頭で出されたファトワーは記録にほとんど残らないので、ここではファトワー文書と、一人ないし複数のムフティーのファトワーを集めたファトワー集、そして他の史料に記されたファトワーを対象とする。

実際に出されたファトワーが膨大な数であったことを考えると、現存するオリジナルのファトワー文書はごく少数に過ぎない。シェイヒュルイスラームのファトワーは、オスマン朝末期まである程度まとまってシェイヒュルイスラームの官庁である長老府に保管されていたらしく、長老府の刊行した年鑑(5)のシェイヒュルイスラーム伝の部分に254点のファトワー文書の複写が掲載されている(Özen 2005, 258, n. 31)。だが、これらは1927年に旧ファトワー局の建物が火災にあった際に消失したとみられている。一紙文書としてのファトワー文書は、トプカプ宮殿博物館附属文書館と首相府オスマン文書館に少数ながら現存していることが知られている。前者については、Mumcu (1963; 1985) が紹介し、8点のファトワー文書(ファトワー自体は9点)の複写を掲載している。後者については、筆者も現物を確認したわけではないが、オンラインカタログからはHAT分類に多く含まれているようである(一例として、Kütükoğlu 1994, 595, ek 156)。ドブロブニクの文書館にも所蔵されているという(Heyd 1969, 37)。さらに、珍しい例として、Savaş (1996) はスィヴァスにあるアリ・ババ修道場 (Ali Baba Zaviyesi) に290点のオリジナルのファトワー文書が現存していたことを報告している。それ以外には、「貼付されたファトワー(fetâvâ-yı yapışdırma)」と呼ばれる、文字通りオリジナルのファトワー文書を貼り付けて冊子体にした書物が存在する。それらのほとんどはシェイヒュルイスラームのファトワーであり、スレイマニエ図書館、イスタンブル大学稀覯書図書館、アタテュルク図書館などに、Fetâvâ-yı Yapışdırma, Mecmûa‘tü’l-fetâvâ などのタイトルで収蔵されている。詳細は、Heyd (1969)、Özen (2005) を参照されたい。

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Çatalcalı Ali Efendi, Fetâvâ-yı Ali Efendi (İstanbul, 1245).

ファトワー文書は、一般に、祈願(da‘vet)、問い(su’âl)、回答(cevâb)、署名(imzâ)の4要素からなる。祈願の文面は様々であるが、スルタンのトゥーラ(花押)のように装飾的に書かれることが通例である。17世紀までは、“Allâhümme yâ veliyyü’l-‘ismeti ve’t-tevfîk, nes’elüke’l-hidâye ilâ sevâ’i’t-tarîk”(おお神よ、無謬性と成功の庇護者よ、あなた様に我らは正しい道における導きをお願い致します)のように長いものが多いが、18世紀後半以降は簡略され、 “minhu’l-hidâye ve’t-tevfîk”(導きと成功は彼(=神)からである) “minhu’t-tevfîk” といった文言が一般的になる。トルコ語の場合、問いは、“Bu mes’ele beyânında e’imme-i Hanefiyye’den cevâb ne vechiledir ki” (この問題を明らかにするに、ハナフィー派の偉大なる法学者たちの回答はいかようであろうかというと)などと始まり、 “… beyân olunup müsâb oluna” などで締めくくられることが多い。冒頭の “mes’ele” のsînの字が引き延ばされて、問いの冒頭を示す。回答は、“el-cevâb, Allâhu a‘lem” から始まり、bâ の字が引き延ばされて問いと回答を区切る役割を果たす。オスマン朝のシェイヒュルイスラームのファトワーの回答は、“Olur,” “Olmaz” のように短いことが有名であるが、17世紀以前であれば、詳細な回答も例外的ではない。署名は、“Ketebehû el-fakîrufiye anhu” などと書かれ、地方のムフティーの場合は官職や位階が付記される。これらの後に、ファトワーの典拠(nakl)として、古典的な法学書から該当箇所の引用(アラビア語)が記されるものもある。Heyd (1969, 45) によれば、地方のムフティーは通常、典拠を付すという。また、やはりHeyd (1969) によると、一つのファトワーに関連する別の問いが続けて立てられ、ファトワーが書かれるものや、別のムフティーによる承認のファトワーが書き加えられるものもあるという。興味深いことに、ファトワー文書の裏面に質問者の名前やその居住地が記されることがあり (Heyd 1969, 38)、Savaş (1996) によればシェイヒュルイスラームのファトワーのほとんどにそのメモ書きが見られ、地方のムフティーの場合には書かれていないという。

ファトワー集には大きく分けて2種類ある。一つは、実際に出されたファトワーを、後に集めたもの。これはさらに、一人のムフティーのファトワーの集成と、複数のムフティーのファトワーの中からカーディーやムフティーの実用に適したものを集めたものに分けることができる。実際には、一人のムフティーのファトワー集も、本人あるいは別の編者が数多くのファトワーの中から有用なものを選び出したものがほとんどなので、実用性という側面は共通する。また、収録されたファトワーには、本来のファトワー文書にあった祈願、問いの冒頭及び末尾の定形句、署名などが省略されている。その一方で、しばしば古典的法学書からの典拠が付けられている。タイトルに、“ma‘a’n-nukūl” とあるのは、その意味である。近年ファトワー集の現代トルコ語版の刊行が相次いでいるが、オスマン語の写本や刊本にあった典拠の部分が省略されているので、注意を要する。

二つめの種類は、カーディーやムフティーのマニュアルとして、さまざまな古典的法学書からの引用を問題ごとに集めたものがあり、問答形式をとらないが、これもファトワー集と呼ばれる。一つ例を挙げれば、17世紀のシェイヒュルイスラーム、アンカラヴィー・メフメト・エミン・エフェンディ(d. 1687)の Fetâvâ-yı Ankaravî という著書(1)は、19世紀に二度刊行されているが、これはハナフィー派の法学書からの抜粋から成る、アラビア語の著作である。

さて、オスマン朝のファトワー集については、Özen (2005) が約160点もの著作について解題を施しているので、詳しくはそちらを参照されたいが、ここでは、代表的な刊行史料について簡単に紹介したい。オスマン帝国のシェイヒュルイスラームの中で今日最も有名なのは、間違いなくスレイマン時代にオスマン帝国の法の体系化に主導的役割を果たした16世紀のエブッスウード・エフェンディであろう。ただ、彼のファトワー集はオスマン時代には、1915年に学術誌で採り上げられるまで、刊行されなかった。このことは、18世紀以降、彼のファトワー集に対する司法の現場での需要が高くなかった事実を示している。現代トルコ語版では Düzdağ (1972) が最も広く使われているが、これはエブッスウードの二つのファトワー集から1001点のファトワーを選んでテーマごとにまとめたものであり、不完全さは否めない。一方、エブッスウードがスレイマンに上奏して、君主の裁可を得たファトワーを集めた Ma‘rûzât は、これまで何度か刊行され、ドイツ語にも訳されている(刊行史料11; Akgündüz 1992; Ebussuûd 2013; Horster 1935)。訴訟関係のファトワーをまとめてラテン文字化し、ドイツ語訳を付した Selle (1962) もある。また、Kānûn-ı Cedîd として知られる、17世紀に成立した土地法のカーヌーンナーメ(法令集)は、実際にはエブッスウードと他の後代のシェイヒュルイスラームのファトワーから構成されており、オスマン時代に刊行された(10)。エブッスウードに先立つ重要なムフティーであるケマルパシャザーデ・アフメト(イブン・ケマル)(d. 1534)のファトワー集も、現代の研究者によって新たに編纂された形で刊行された (İnanır 2011)。

オスマン帝国の後半期に最も参照されたファトワー集は、17世紀のシェイヒュルイスラーム、チャタルジャル・アリのものであり、典拠付きのオスマン語刊本が多数存在し(2)、現代トルコ語転写版も近年刊行された (Çatalcalı Ali 2014)(ただし、典拠は省略されている)。オスマン末期に4主要ファトワー集として知られていたのは、そのほかに、イェニシェヒルリ・アブドゥッラー(d. 1743)の Behcetü’l-fetâvâ (12)、フェイズッラー・エフェンディ(d. 1703)の Fetâvâ-yi Feyziyye (3)、そしてマフムト1世からセリム3世の時代のシェイヒュルイスラームのファトワーの集成である Netîcetü’l-fetâvâ (9) である。いずれもオスマン時代に刊行され、近年になってKayaらによりKlasik出版から現代トルコ語版が刊行された (Yenişehirli Abdullah 2013; Feyzullah 2009; Kaya vs. 2014)。18世紀初頭のシェイヒュルイスラーム、アブデュッラヒーム(d. 1716)のファトワー集(7)も、1820年代に出版された。タンズィマート時代以降になってもファトワーは法形成に重要な役割を果たしており、複数のシェイヒュルイスラームのファトワーを集めた(6)とその増補版(4)が刊行され、また、1914年に発刊された長老府の広報誌Cerîde-i İlmiyye は毎号シェイヒュルイスラームのファトワーを掲載するようになる。Cebeci (2009) はそれらを集めた現代トルコ語版である。そのほか、ワクフ物件の賃貸借契約イジャーレテインに関するファトワーの選集が、1850年代に刊行されている(8)。地方のムフティーのファトワーをいくつか挙げると、出版はされていないが、モスタルの Ahmed el-Mostarî (d. 1776) のファトワー集は、サラエヴォに写本が多数あり、それを使った英語での研究(Zečević 2007)もある。アラビア語圏では、パレスチナのラムラのムフティー、ハイルッディーン・ラムリー(d. 1671)のal-Fatāwā al-Khayriyya (13)、ダマスカスのハーミド・イマーディー(d. 1758)のal-Fatāwā al-ʿImādiyya をイブン・アービディーン(d. 1836)が編集したal-ʿUqūd al-durrīya fī tanqīḥ al-fatāwā al-Ḥāmidīya (14) などが比較的よく知られている。

ファトワーを特に集めたものではないが、ファトワーの含まれている史料は多数存在する。例えば、政治的に重要なファトワーは年代記に引用されることがある。また、シャリーア法廷では、訴訟当事者が自らの主張を強化するためにしばしばファトワーを提示するが、それらが法廷文書に引用されて法廷台帳に書き留められることになる。発行者のムフティーを特定できないこともあるが、ファトワーが出された、あるいは、利用された文脈を知ることができる点で、また、イスタンブルだけでなく地方社会のファトワーを知ることができる点で、有用である。

さて、ファトワーの重要な特徴は、それらが通例、匿名化され、脱文脈化されている点である(ただし、16世紀末までは、固有名が使われるファトワーも存在する)。つまり、もともと特定の人物による特定の問いを受けて発行されるものであったとしても、ファトワーの文面においては、男であればザイドやアムル、女であればヒンド、ゼイネブという仮名に置き換えられ、日付も書かれない。これは、ファトワーによる法解釈が一般化しうるという性格と関係している。その代わり、ファトワーはあくまでも見解なので、その施行は強制されない。なお、それに対して、実名が使われ、法的拘束力があり、その代わりに判例として一般化されないのがカーディーの判決である。ファトワーのこの特徴は、その歴史史料としての利用を困難にする。誰がどういう文脈で出した問いなのか、その回答が履行されたのか、ほとんどの場合確かめるすべがないからである。しかし、ファトワーが規範的テキストであり、とくにシェイヒュルイスラームのファトワーであれば、帝国の公式の法解釈を示しているがゆえに、オスマン帝国でいかなる法が規範とされていたのか、を知るための史料たりうるのである。また、ムフティーに対して問いがなされたこと自体は事実だと考えられるので(中には想定問答の類があるようにも見受けられるが)、当該社会でどのような問題が生じていたのか、を知ることができる。つまり、ファトワーは狭い意味での法学研究のみならず、「オスマン帝国の」法学・法制史、そして社会史の研究の素材たりうるのである。

しかし、Imber (1997a) は、ファトワーを社会史的研究に用いることに懐疑的である。イェニシェヒルリ・アブドゥッラーの Behcetü’l-fetâvâ における婚資金(mahr)の規定を検討した彼は、それらのファトワーが当時(18世紀初頭)のオスマン社会における女性の社会史に光明を投ずることはなく、ファトワーは法理論の歴史の史料たりうるが、社会史の史料としての価値はない、と結論づけた。彼は、ファトワーに質問者やそれを取り巻く具体的情報が欠如している点をその理由として挙げている。また、彼によれば、Behcetü’l-fetâvâ の婚資に関するファトワーは、ハナフィー学派の一般的見解からとくに逸脱するものでないことから、法学史の史料としても疑問符がつくことになる。とはいえ、彼としてもその結論をファトワー研究一般にあてはまるものとは考えていなかったはずであり、彼もまたエブッスウードを始め帝国のムフティーによるオスマン朝独自の法形成を明らかにしてきたのである (Imber 1996, 1997b)。クズルバシュ、ティマール制、コーヒーハウス、エスナフ(同職組合)など、オスマン社会に固有の事柄に関わるファトワーが、社会を反映していないと見なすことも難しいだろう。同時にまた、ファトワー集が最も実用的なカーディーのマニュアルとして使われていたことも見逃すべきでない。

最後に、ファトワーを用いた研究をいくつか挙げておく。Düzdağ (1972) は、史料集であるが、エブッスウードのファトワーを多数紹介し、それが社会史の史料となりうることを示した功績は大きい。本格的な研究として第一に挙げられるのは、エブッスウードの法解釈をオスマン帝国の歴史的文脈において論じたImber (1997b) であろう。また、シャリーアがジェンダー規範を重要なものと位置づけているため、ファトワーはジェンダー史研究の格好の素材である。その代表例は、ラムリー、イマーディー、タミーミー ‘Abd al-Fattāḥ b. Darwīsh al-Tamīmī (d. 1725/26) のファトワーとともにシリアとパレスチナの法廷台帳を利用した Tucker (1998) であり、ほかにも、女性の振舞いに関するエブッスウードの言説を分析したPeirce (1999)、上述のZečević (2007) などがある。トルコ語の研究については、Özen (2005) を参照されたいが、近年の単著として、史料集的性格が強いが、Özcan (2003) を挙げておく。上述のSavaş (1996) はきわめて興味深い題材を扱ってはいるが、史料紹介が中心である。日本では、林 (2003) が、イジャーレテイン契約をめぐるエブッスウードのファトワーを採り上げ、ワクフ文書等に見られる実態とも照らし合せて分析している。また、大河原 (2005) では、証書の証拠能力に関連してラムリーのファトワー集が一部用いられている。日本語で読めるものとして、ガーバー (1996) の第3章がファトワーを論じている。なお、イブラヒム・ミュテフェッリカに印刷所創設の許可を与えたファトワーは、歴史学研究会編『世界史史料』に訳出されている(歴史学研究会 2009, 115-116)。

(秋葉淳)

【刊行史料(オスマン語・アラビア語)】

  1. Ankaravî Mehmed Emin Efendi. Fetâvâ-yı Ankaravî. İstanbul: Matba‘a-i Âmire, 1281, Bulak: Dârü’t-Tıbâ‘ati’l-Mısriyye, 1281.
  2. Çatalcalı Ali Efendi. Fetâvâ-yı Ali Efendi. Salih b. Ahmed el-Kefevî (der.). İstanbul, 1245, 1258, 1266, 1272, 1278, 1283, 1289, 1305, 1312, 1322.
  3. Feyzullah Efendi. Fetâvâ-yı Feyziyye ma‘a’n-nukūl. İstanbul: Dârü’t-tıbâ‘ati’l-âmire, 1266. (Fetâvâ-yı Ali Efendi’in kenarında, 1324/25).
  4. İlâveli Mecmû‘a-i Cedîde. Yakovalı Hacı Ali el-Murtazâ b. Zübeyr (der.). İstanbul: Matba‘a-i Hayriyye ve Şürekâsı Matba ‘ası, 1329/1327/1911.
  5. İlmiyye Sâlnâmesi. İstanbul: Matba a-i Âmire, 1334.
  6. Mecmû‘a-i Cedîde. Mehmed Nûrî (der.). İstanbul: Esad Efendi Matbaası, 1299.
  7. Menteşîzâde Abdürrahim, Fetâvâ-yı Abdürrahim. İstanbul: Dârü’t-tıbâ‘ati’l-âmire, 1243.
  8. Meşrebzade Mehmed Ârif (der.). Fetâvâ-yı Câmiü’l-icâreteyn. İstanbul: Dârü’t-tıbâ‘ati’l-âmire, 1252.
  9. Netîcetü’l-Fetâvâ. es-Seyyid Ahmed ve Hafız Mehmed b. Ahmed b. Şeyh Mustafa el-Gedûsî (der). İstanbul, 1237, 1265.
  10. “Osmanlı Kānûnnâmeleri.” Millî Tetebbu‘lar Mecmû‘ası 1(1) (1331/1915): 49–112, 1(2) (1331/1915): 308–337.
  11. “Osmanlı Kānûnnâmeleri: Hazih Ma ‘rûzâtü Ebi’s-su‘ûd Efendi.” Millî Tetebbu‘lar Mecmû‘ası 1(2) (1331/1915): 337–348.
  12. el-Yenişehrî, Ebülfazl Abdullah Efendi. Behcetü’l-Fetâvâ ma‘a’n-nukūl. Mehmed Fıkhî el-Aynî (der.). İstanbul, 1266, 1289.
  13. al-Ramlī, Khayr al-Dīn ibn Aḥmad. Kitāb al-fatāwā al-Khayrīya li-nafʿ al-barīya. Bulak, 1273; al-Qāhira, 1300.
  14. Ibn ʿĀbidīn, Muḥammad Amīn. al-ʿUqūd al-durrīya fī tanqīḥ al-fatāwā al-Ḥāmidīya. al-Qāhira, 1300.

【刊行史料(現代トルコ語)】

  • Akgündüz, Ahmed (haz.). 1992. Osmanlı Kanunnâmeleri ve Hukukî Tahlilleri, IV. Kitap: Kanunî Sultan Süleyman Devri Kanunnâmeleri, I. Kısım: Merkezî ve Umumî Kanunnâmeler. İstanbul: Fey Vakfı, 1992.
  • Cebeci, İsmail (haz.). 2009. Ceride-i İlmiyye Fetvaları. İstanbul: Klasik Yayınları.
  • Çatalcalı Ali Efendi. 2014. Açıklamalı Osmanlı Fetvâları: Fetâvâ-yı Ali Efendi, 2 vols. H. Necâti Demirtaş (haz.), İstanbul: Kubbealtı.
  • Düzdağ, M. Ertuğrul. 1972. Şeyhülislâm Ebussuud Efendi Fetvaları Işığında 16. Asır Türk Hayatı. Istanbul: Enderun Kitabevi; 2nd. ed., Şeyhülislâm Ebussu’ûd Efendi’nin Fetvalarına göre Kanunî Devrinde Osmanlı Hayatı. İstanbul: Şûle Yayınları, 1998.
  • Ebusuûd Efendi, Şeyhülislâm. 2013. Ma‘rûzât. Pehlul Düzenli (haz.). İstanbul: Klasik Yayınları.
  • Feyzullah Efendi, Şeyhülislâm. 2009. Fetâvâ-yı Feyziye. Süleyman Kaya (haz.). İstanbul: Klasik Yayınları.
  • Horster, Paul (hrg.). 1935. Zur Anwendung des islamischen Rechts im 16.Jahrhundert : die “juristischen Darlegungen” (ma’rūżāt) des Schejch ül-Islam Ebū Su‘ūd (gest. 1574). Stuttgart: W. Kohlhammer.
  • İnanır, Ahmet. 2011. Şeyhülislâm İbn Kemal’in Fetvaları Işığında Kanûnî Devrinde Osmanlı’da Hukukî Hayat. İstanbul: Osmanlı Araştırmaları Vakfı.
  • Kaya, Süleyman vs. (haz.). 2014. Netîcetü’l-Fetâvâ: Şeyhülislâm Fetvaları. es-Seyyid Ahmed Efendi ve es-Seyyid Hafız Mehmed b. Ahmed el-Gedûsî (der.). İstanbul: Klasik Yayınları.
  • Selle, Friedrich. 1962. Prozessrecht des 16. Jahrhunderts im osmanischen Reich: auf Grund von Fetwas der Scheichülislame Ebüssuud und anderer unter der Regierung des Sultans Süleiman des Prächtigen. Wiesbaden: Otto Harrassowitz.
  • Yenişehirli Abdullah Efendi, Şeyhülislâm. 2013. Behcetü’l-Fetâvâ. Süleyman Kaya vs. (haz.). İstanbul: Klasik Yayınları.

【参考文献】

  • Heyd, Uriel. 1969. “Some Aspects of the Ottoman Fetvā.” Bulletin of the School of Oriental and African Studies 32: 35–56.
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  • –––. 1997a. “Women, Marriage, and Property: Mahr in the Behcetü’l-Fetāvā of Yenişehirli Abdullah.” In Women in the Ottoman Empire: Middle Eastern Women in the Early Modern Era, ed. Madeline C. Zilfi, 81–104. Leiden: Brill.
  • –––. 1997b. Ebu’s-Su‘ud: The Islamic Legal Tradition. Edinburgh: Edinburgh University Press.
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  • 林佳世子. 2003. 「イスラーム法の刷新―オスマン朝における新貸借契約制度の誕生をめぐって」『イスラーム・環インド洋世界』(岩波講座世界歴史14),岩波書店, 169–191.
  • 歴史学研究会編. 2009. 『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗I 南アジア・中東・アフリカ』岩波書店,115–116(秋葉淳訳・解説「オスマン帝国における活版印刷の導入(1727年)」).

 

(2016年3月作成)

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