アルメニア文字の定期刊行物(1870年代まで) Ermeni Harfli Süreli Yayınları
「新聞」の項で論じられているように、19世紀以降のオスマン帝国では多種多様な言語で定期刊行物が発行されており、現在、それらは発行当時の社会や政治、文化を知るための情報源として利用することができる。そのなかでも以下では、1870年代までにアルメニア文字で発行されたものについて見ていきたい。なお、「雑誌」の項で論じられているように、19世紀中葉に定期刊行物が普及し始めた当初のオスマン帝国においては、新聞と雑誌の区別が曖昧だったが、本項で見るアルメニア文字の媒体は、新聞と呼ぶことができるものが多い。ともあれまずは、アルメニア人の言語状況について確認しておこう。
19世紀オスマン帝国のアルメニア人のあいだでは、アルメニア語だけでなくアルメニア文字のトルコ語で定期刊行物が流通した。その背景には以下のような事情が存在する。オスマン・アルメニア人のうち、帝国内でアルメニア人が最も集中していた東部六州においてはアルメニア語と、場合によってはクルド語が第一言語として用いられていたものの、その都市部の男性にはトルコ語を解する者が少なくなかった。一方、イスタンブルとイズミルのアルメニア人は、アルメニア語とトルコ語の二言語話者であり、アナトリアのアルメニア人はアルメニア語を知らず、トルコ語を第一言語とする者がほとんどだった。このように、トルコ語を解するアルメニア人は少なくなかったが、19世紀にアルメニア人のあいだで普及した新式学校ではアルメニア語の教育に重点が置かれており、アラビア文字でトルコ語を読むことを学ぶ機会を得た者はごく少数にとどまった。
こうしたなか、アルメニア文字のトルコ語出版物は、当初はトルコ語モノリンガルのアルメニア人を読者として想定して発行されたと考えられる。ただし、トルコ語を学ぶことに消極的で、トルコ語モノリンガルの正教徒をカラマンルという蔑称で呼ぶこともあった正教徒の場合と異なり、アルメニア人はトルコ語を身につけることに積極的だった(Benlisoy 2010; Strauss 2003)。そのため、アルメニア文字のトルコ語出版物は、トルコ語モノリンガルのアルメニア人だけでなく、アルメニア語とトルコ語のバイリンガルのアルメニア人にも読まれていた。また、アルメニア文字のトルコ語を主たる使用言語とする新聞のなかには、アルメニア語記事を掲載したり、アルメニア文字のトルコ語記事にアルメニア語の単語や文を織り交ぜたりするなど、実際にはバイリンガルの媒体もあった。アルメニア語とアルメニア文字のトルコ語の新聞のあいだで論争が頻繁に交わされるなど、19世紀には両言語の媒体は言論空間を共有していたのであり、当時のアルメニア人社会を研究する側にとっても両者に目配りすることが求められてくるだろう。
オスマン帝国で発行された最初のアルメニア語定期刊行物は、1832年に創刊されたアルメニア語版オスマン帝国官報だったと言われている。つづいて1839年にはアメリカから流入したプロテスタント宣教師が布教のためにイズミルでアルメニア語の定期刊行物を創刊している。これに対し、アルメニア教会の信徒による媒体は、翌1840年に同じイズミルで『アララトの曙光』(Arshaloys Araradean)の創刊によって始まった。またイスタンブルでは、1840年に短命に終わる新聞が発行された後、1846年にアルメニア教会イスタンブル総主教座の機関紙『ハヤスダン』(Hayasdan)が創刊された。同紙が1852年に廃刊されたのち、総主教座の機関紙としての役割は、同年に創刊される『マスィス』(Masis)に受け継がれることになる。
アルメニア教会の信徒が発行した新聞は主に、海外情勢、国政、アルメニア共同体内部の動向を扱っており、特に共同体の内部事情に関する情報は貴重である。それ以外に経済や通商関連の情報が掲載されることもしばしば見られる。ただし、上で述べたような初期の媒体は、「情報の提供、広い意味での啓蒙活動」(新井2009)を主な目的としていた初期のオスマン語民間新聞と同様に、報道紙としての性格が強い。少なくとも『ハヤスダン』が創刊された1846年には、オスマン政府はアルメニア語のものを含む諸言語の新聞に検閲を課しており (上野2012)、それだけに国政について批判的に論じる記事は、まず見られない。また、アルメニア共同体の内部事情についても批判的な論調は稀であり、総主教や俗人有力者、そして総主教座の管轄下で共同体運営を担うべく新たに設立された評議会や委員会の動向を好意的に描く傾向が強い。言語面では、19世紀初めまで文章語として主に用いられた古典語ではなく、口語に比較的近い形の文章語が用いられた。ただし、口語に近いとは言っても、トルコ語要素の多く混入した当時のイスタンブルのアルメニア語とは違いも少なくなかったと考えられ、むしろ定期刊行物の普及が文章語の確立において重要な役割を果たしたと見ることができる。
1850年代半ばから、オスマン・アルメニア人のあいだでは、共同体運営のための規定を起草し、共同体議会を開設して政治参加の機会を広げようとする動きが見られた。こうした流れとともに、共同体政治の公開性が高まるにつれて、アルメニア人の定期刊行物には『蜜蜂』(Meghu)や『エルジヤスの伝令』(Münadi-yi Erciyas)のように、アルメニア共同体の内部事情や共同体政治を批判的に扱うものが見られるようになる。多くの新聞の編集者が共同体議会議員として共同体政治に関わっていたこともあり、これ以降、アルメニア文字の新聞は共同体政治を扱う媒体へと変化していく。
1856年に創刊された『蜜蜂』は、その批判的言論だけでなく、トルコ語語彙混じりの口語調のアルメニア語を用い、また風刺画を掲載するなど、表現の面でも特徴的である。1859年にガラベド・パノスィアンによって創刊された『エルジヤスの伝令』は、アルメニア文字のトルコ語で、当初はトルコ語しか解さないカイセリ出身のアルメニア人のために発行されながら、それ以外の人々からも次第に人気を得ていった。1862年にオスマン政府によって廃刊に追い込まれるも、パノスィアンは新たに定期刊行物発行許可を得ることで、1866年には『諸論列叙』(Manzume-i Efkar)を創刊する。アルメニア文字のトルコ語を主たる使用言語としながらアルメニア語記事も多数掲載した同紙は、1870年代にはプロテスタント宣教師によってアルメニア人のあいだで「最も影響力」のある新聞と評されており、同時代のアルメニア人もその高い人気に言及している (ABCFM; Paronyan 1964)。
アルメニア文字の定期刊行物に関しては、アルメニア共和国で一定の研究蓄積がある (Ghukasyan 1975; Kharatyan 1989; 1995; Step‘anyan 1963)。これらの研究は情報量の点では貴重ではあるものの、イデオロギー的偏向がかなり強い。文献目録としてはLevonyan (1935)やMildanoğlu (2014)、アルメニア文字のトルコ語に関してはStepanyan (2005)がある。最近では、出版業に携わったアルメニア人についてまとめたTeotigの著書がトルコ語に翻訳されている (2012)。一方、1840年代から1870年代のオスマン・アルメニア人に関する研究が進んでいないこともあり、この時代のアルメニア文字の定期刊行物を利用した研究は非常に少ない。アルメニア人の政治思想を扱ったLibaridian (1987) や建築家のバリアン家を扱ったWharton (2015) の研究が見られるほか、アルメニア共同体における学校教育の普及やミッレト憲法などを扱った上野 (2009a; 2009b; 2010), Ueno (2013) の一連の研究がある。
ただし、アルメニア文字の定期可能物の史料的可能性はアルメニア人を研究対象とする場合に限られるわけではない。アルメニア文字のものに限られたことではないにせよ、新聞は、行政文書には記されない交渉や根回し、人々の反応など、政治史や社会史の研究に資する情報が含まれている(Ueno 2015)。またイズミルのような地方都市に関しては、アルメニア語を含む多言語の媒体から地域社会に関わる情報を得ることもできる。アルメニア文字のトルコ語に関して言えば、ムスリム読者が存在したことは指摘されているが(Cankara 2015)、従来の研究は単行書を扱うにとどまっており、今後は定期刊行物を用いた研究が進められることが期待される。
アルメニア文字のトルコ語定期刊行物は、アルメニアとトルコ、そして欧米の図書館にその所蔵が見られる。アルメニアでは、オスマン領で発行されたものの所蔵としてはマテナダランの利用価値が高い。トルコでは、アタテュルク図書館に、19世紀のアルメニア語定期刊行物の所蔵が確認されている。また、閲覧許可を得るのは難しいが、イスタンブル総主教座図書館の所蔵はきわめて豊富である。これは、エルサレム総主教座図書館も同様であり、利用状況の改善が望まれる。一方、欧米の図書館にはアルメニア語新聞の現物に加え、マイクロフィルムのコレクションが所蔵されている場合があり、比較的利用が容易である。
※本項は、三代川寛子編『東方キリスト教諸教会――基礎データと研究案内(増補版)』(上智大学アジア文化研究所イスラーム地域研究機構, 2013)所収の上野雅由樹「アルメニア文字による定期刊行物の普及と展開」の一部を修正し、加筆したものである。
(上野雅由樹)
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(2015年10月作成)